1

いろんな時代のいろんな種類の彫刻から、付加的・偶有的な要素をつぎつぎと剝ぎ取ってゆくと、何が残るだろうか。「存在」への問いだろうと、私は思う。「存在」への痺れの感覚、と言ってもいい。

物が在り、人が在り、世界が在り、仮象の底にやっぱり何かが在る、ということの不思議。そして、それらすべてが無いかも知れぬことの衝撃。物質的知覚的実在と観想的空無との間の、身震いを催す虚無の充溢から、しかし、やはり、何かが立ち現われる。その「出現」をも含めた「存在」の呻きを発するのは、あらゆる芸術のなかで、ただ彫刻だけなのである。

だから、すぐれた彫刻は哲学的であると同時に官能的である。エロティックでないものは、彫刻的ではない。(マルキ・ド・サドのような、ジョナサン・ボロフスキーのような尋常ならざる精神の持ち主は、彫刻以外のどんな手段を用いても、根源的な「存在」の呻きを発することができる。精神自体が過度にエロティックだからだ。)

 

2

尋常な精神によるオーソドックスな彫刻は、本来、物体としての彫刻であった。神仏の像という形を借りながら、東洋人も西洋人も、聖なる物体、通常ならざる物体を現わし出そうと努めてきたのである。そして、そのような特異な物体が在る、物体が特異な仕方で立つ、ということをとおして、人々は存在一般の謎と不可視なものの衝撃を表現してきた。だから、物体としての彫刻が彫刻のオーソドキシーを担うという構図はいまなお変わることがないし、今後もそうだろうと考えて差支えない。(この物体としての彫刻という根源的な概念を、20世紀に発生したオブジェの考えと混同してはならない。絵画に由来するオブジェは、事物の異様な見え方を事物の異様な在り方に移しかえることによって成り立ったのであり、存在自体を問うものではなかった。)

ところで、物体彫刻の物体彫刻たる眼目は、「表面」を何らかの仕方で励起することによって自らの存在を特異化する点にある。というのも、「物体」とは、定義からして、連続する独自の表面によって自らを閉ざした知覚の対象のことだからである。

不定形な砂や水も、目に見えない空気も、物質的実在であることに変わりはない。しかし、物が在るということを目に見える形で永続的に納得したいという人間の素朴な知覚の習性が、「輪郭」や「物体」という概念を生み出した。その同じ知覚の習性と願望から生まれた彫刻が、みずからも、連続する閉じた独自の表面をもつ物体であろうと欲するのは、あまりな理の当然と言わればならない。

20世紀に入って物体破りの「類彫刻」が叢生してきたのは、このあまりな理の当然さに倦んだマニエリスム的時代精神が科学的思考の型に引き寄せられた結果であって、当然な理そのものが崩折れてしまったわけではなかった。彫刻への情熱は、物を物体(自立せる存在)として見たいという知覚の習性や、私たちがこの世に在ることの自己同一性を求める願望と、同じ根っこから出ていたのである。とすれば、彫刻が存在を凝視する芸術であるかぎり、それが物体に――物体の表面が比喩的に語るところに――立ち返ってゆくのは、時間の問題だろう。いや、20世紀の終りに差しかかって最も豊かな再生を見せるのは、新しい形をえた物体の彫刻であろうことを、私は予言してはばからない。

 

3

李禹煥の三次元作品は、60年代末のモノ派の時期からして、真っ向うから「存在」を問うものだった。絵画から三次元に転進したこと自体、より端的に「存在」を問う手段を欲したからであって、その点、視覚形式的な関心から立体造形に移ったアメリカのプライマリー・ストラクチャーズとは、動機と性質を異にするのである。

李の存在への問いは、彼の哲学的素養に由来するところが大きかったにちがいない。が、それ以上に、関根伸夫、菅木志雄も含めたモノ派の世代全体が、「トリックス・アンド・ヴィジョン」における主知主義的な存在へのアプローチを否定的媒介項として、より赤裸に現象学的な存在論を目指しうる位置に立っていたことが大きく作用していたように思われる。「視覚の構造」に拘泥していた高松次郎、関根伸夫らの主知主義的な――表面的に形容すればトリッキーな仕事が、1968年秋に関根自身の『位相ー大地』によって克服されたとき、「存在の構造」を問うモノ派が成立したのだった。

絵画から出発したモノ派がまがりなりにも70年代の彫刻的状況の担い手となりえたのは、このように、「存在」を端的に問う哲学的態度を根底にしていたからであって、ただたんに立体化したからではなかった。立体一般であることと彫刻であることとは、大工仕事と芸術ほどにも違うのである。

 

4

「存在」を問う姿勢の混じりけなさによって、李禹煥の三次元作品は、原理的に「彫刻」への切符を手に入れた。が、この「存在」行きの切符を持ちながら、彼は「物体」という通常の乗り物に乗ることを拒んだのである。李の三次元作品の特異さは、すべてこの二面的性格に起因するとみていい。

物を用いないというのではない。もともと第三者からモノ派と呼ばれたように、彼の三次元作品では未加工の事物(いわゆる物一般)が重要な位置を占めてきた。「モノ派」の呼称は正しいのである。問題は、物が「物体」として扱われたことがなかったという一点にある。

物が物体化するとは、たとえば、ある石の塊りが特殊な実在物としてその周辺や他の事物から区別されうるほどに独自の表面で自らを閉ざすことを意味している。普通の彫刻家は、そのことを本能的に知っているから、石を自然石のままにしておくことはない。何らかの仕方でその表面を際立たせたり、そこから表面の問題(たとえば断面)を抽き出そうとする。

ところが、李禹煥の三次元作品では、石や木や鉄板や綿やガラス板がそのような扱いを受けたことは、一度も無かった。鉄板の中央部が石や木によって磨き出されたように見える作品があるにはあったが、もとよりそれは、鉄板を自立せる物体として孤立させるためであるどころか、逆に、他の事物や行為との関係を際立たせるための工夫であった。

李の場合、石は石の概念と物質的実在性とが過不足なく重なり合った「石一般」として見えればそれでよく、「ソノ石」として特異化された個物であることを要さない。またそうかといって、石であることをやめて、特殊な構成物や抽象形態になってしまっては、物としての石を登場させることその意味がない。

なぜ、李の物は物体への道を封じられているのだろうか。

この芸術家の感性が、そしてその感性を軸として形成された彼の思想が、「物体」という観念そのものを批判し、拒絶しているからである。

物が在り、人が在り、世界が在るという深々とした存在の感情を、目に見える永続的な形で納得したいという欲求において、李はいかなる彫刻家にも遅れをとるものではなかろうが、その「目に見える永続的な形」が、表面の励起による物の物体化、物体の物殊化という道をとらなければならぬ道理はない、いや、むしろ、そのような道は、物や人や世界を狭く限定してしまう危険がある、と李は考えるのである。

「この「反物体」の思想こそ、モノ派の理論家としての、また自己の内なる東アジア的感性に忠実な芸術家としての李禹煥の、譲れぬ一線であった。のみならず、「物体」の観念を根底にして栄えた西ヨーロッパ型の芸術が変質と寛容を余儀なくされているいま、存在の感情を表現しうる「もう一つの彫刻」がありうるだろうことを、いや、あるべきだということを、それは彼に確信させてくれたにちがいないのである。

 

5

「存在」へ向かうのに、「物体」の乗り物を捨てて李が選んだのは、「場所」という乗り物だった。

「物体」は、定義からして孤立へ向かう。孤立と引換えに、存在の自立を仄かす。

それと対照的に、李は物を関係のなかに置くのである。物自体にはほとんど手を加えずに、すなわち、表面の特異化によって他から超絶するチャンスを与えずに、物を、同種の物との、他の物との周りの場所的・空間的条件との、そして、ときには作家自身の行動との、明示された関係のなかに置くのである。

この関係は、シュルレアリスムのオブジェのように意味の操作を含むことはまったくない。空間の構成や増殖を企図することもない。諸要素・諸現象を概念的・物理的に無差別に関係づける電気回路じみた図式性もない。物を物体としてでなく関係において見ようという李の目は、知を弄び空間に機能したいがためではなく、あくまでも、物が在り、人が在り、世界が在ることの存在感情に応えようと欲しているのである。だから、この存在感情に応えうる関係は、物や人や世界がどのように在るのかという存在様式の原型を指し示すものでなくてはならない。

ところが、李にとって、物や人や世界は、人間の知的分別と観念の投影によって一律に対象化され、それぞれが孤立して並列し合うような物体であってはならなかった。物や人が在るとは、即物的にでも観念的にでもなく、世界が在ることに包まれて在るのでなければならなかった。端的に言って、物も人も世界のなかに、世界において在るのである。

とすれば、この「於いて在る」ことの場所性、つまり、何かが在るとは、それがより大きくより高次な何かを場所とし、そこにおいてこそ存在を顕わにすることができるという「場所性」こそが、李の存在感情に応えうる関係として特異化されることになったのは当然であった。

たんなる関係一般ではなく、存在の場所性を指し示す関係であること。

このことは、李の三次元作品を理解するうえで逸してはならない要点であろう。物は孤立していないだけでなく、たんに並列的・等価的に関係しているのでもない。李の三次元作品の多くは二種類の物の組合せから成っているが、初期の最も並列的に見えた綿と石でさえ、石は綿に抱かれ、綿は石にとっての「於いてある場所」の一段階を担う形となっていた。逆に、鉄板と綿を用いた作品では、鉄板の空間的布置が綿に独自の場所を与え、その在り様を指し示す形となっていた。

物と壁、物と柱、物と地面などの関係において、私たちの知覚の習性はいずれの場合も後者を前者にとっての場所と感じさせてくれる。それと同じように、李の作品では、物と物の組合せにおいてすら、一方は他方に存在様態の基盤を与える役割を担っており、そのようにして、存在一般が世界に包まれ、世界においてあるほかないことの確信を表明しているのである。

この存在様式は、もはや存在様態の図像でも図式なのでもない。存在感情の様式なのである。物の存在、人の存在が、世界の存在によって深く抱かれ、母親の胸でまどろむ赤児の心中のように充足し自由であることを至福とする感情が、物を物体化することによってはおそらく得られないだろう別の様式を欲し、それを手に入れたのである。

鉄板と石の組合せは、そのような季の存在芸術の作法にとって最も実りの多い好都合な組合せとなった。

石が介在することで、鉄板はたんなる工業材であることをやめ、空間を分節し、空間を多元化する「面」となった。反面、その面によってあやされ、在るべき場所を示唆された石は、たんなる物の塊りであることをやめて、面・鉄板が生み出す多元的な場所に打ち込まれる「点」のごときものとなった。そして、場所を再び一体的なものに帰す緊張の楔となった。

この楔、水面に落ちた一粒の雨滴のようなこの自然石は、それ自体ではどのような意味においても作品ではない。彫刻でもない。物体ですらない。面・鉄板が分節する空間をみずからの存在の「場所」として特定することによってのみ、ただの物の塊りから「存在」そのものを明示する透明な存在者となることを得たのである。「物」自体でも「物体」でもなく、「場所」こそがこの三次元芸術の眼目であり、命であることは明らかであろう。

 

6

通常の彫刻とは違って、「物体」によらずに「場所」によって「存在」を問い、最も深い存在の感情に形を与えることに成功したこのような芸術を、私たちは「もう一つの彫刻」として了解することができる。それが東アジアにのみ限定された様式にとどまらないことは、アメリカのリチャード・セラの例が示唆していよう。

ただ、一つ、問題は残っている。「場所」の乗り物で「存在」へ向かうのも(もう一つの)彫刻たりうるとしたら、認識のこの現在点から遡って、私たちは中世日本の庭園芸術や超古代の石組みをも考慮に入れた「もう一つの彫刻史」を編む必要があるのではないかということである。ちょうど、ドナルド・ジャッドの「特殊な物体」の出現が、彫刻の正史全体の再解釈を促したように。

そのような作業を経ずに、漠然と「彫刻」ないし「彫刻的なもの」の名で了解してしまうならば、李禹煥の芸術は積極的には理解されたことになるまい。「彫刻」そのものの理解にも資するところがない。「物体」でも「オブジェ」でも「構成」でも、いわんや漠たる「インスタレーション」でもなく、だが、「存在」を問う厳しさにおいては最良の「物体彫刻」に比肩しようとするこの「もう一つの彫刻」は、まだまだ、けっして安易に了解されてはならない若葉の苦み、原野を行く人の野心を湛えているのである。敬して見守るべきではなかろうか。

1984年12月

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