開かれた構造

建畠 晢

「全ては太初から実現されており、世界はそのまま開かれているのに、どこへまた何の世界を作り出すことができようか。」今読み返せば無償の美しさに満ちたフレーズである。だが20年前、ミニマル・アートのリテラリズムムに目を奪われつつも、ある反発を感じていた私にとって、この創造意識の否定を契機にした「あるがままの世界との出会い」という主張は、一つの性急な思い込みをもたらすものであった。純粋還元というミニマリズムの方法論では、近代主義的な操作の概念を克服しえない。そう、操作の主体としての自己の否定という時代のスローガンは、李の発言の中にこそ、制作の実践倫理として直裁に提示されているのだ、と考えたのである。

時代はあれからずいぶん遠いところにきた。今は私は、操作という意識は逆にその主体である自らが歴史的に構造化されていることを自覚させるもの、いわば自己対象化という“毒”をはらむものであり、それはモダニズムの本質である自己批評性につながっていると思っている。シュミレーショニズム などと称される動向は、外在化された主体の構造を自己消費してゆくという、操作主義の逆説を典型的に示すものであろう。そしてこのような時にあってこそ、李禹煥の言葉は美しいのだ。なぜならそれは自己言及というアイロニーを、芸術であることだけをする芸術のおぞましさを、決定的にまぬがれているからである。「あるがままの世界」の肯定の意味が、当時の性急なる近代批判(その意識自体、近代的なものであったと言わざるをえまい)とは別の角度から、いわば彫刻の根源的な無償の姿として見えてきたということでもある。もちろん彼の作品自体が「場所的なミニマリズム」から、「置かれる場や位置や時などの浸透を受けつつ成立する」もの、「内的であると同時に外的な場所性をも取り込む」ものへと展開して来たという事実を背景にした話ではあるのだが。

言い換えれば、彼の作品は当時も今も彫刻を問う彫刻のもたらしかねない禁欲的な貧しい状況とは無縁であり、つねに「あるがままの世界」を感得させる様式として制作されてきたのである。それは一般的な意味での即物性を感じさせながらも、最終的にはおぞましき一個の物体として現前するのではなく、誤解を恐れずにいえば、日本の石庭に通じるような「場所」、きびしく位置と関係を定められながらも排他的な特権的空間ではなく、われわれの存在をも含めた世界をそのまま受容しているような場所なのである。だがこのような観念の腐臭を免れた空間とは、自然に近づくものでもなければ、「仕草」(制作)を漂白するものでもないだろう。彼の作品は一貫して署名性の空間である。創造意識の否定と無署名性とを短絡させてはならないのである。

その意味で、李が鉄と石を素材とした近作を「半透明なもの」と述べているのは興味深い。これは当然ながら、触覚的な芸術であるといわれる彫刻の通念に対する批判をはらんでいる。彫刻の触覚性とは、視線がそこでさえぎられる不透明なものの表面の問題である。物体そのものを対象化しようとする彫刻家は、ゆえにその表面を励起させようとする。抜き差しならぬ表面をそこで決定しようとするのである。李の作品もまた表面が重要でないというわけではない。鉄板と自然石の物質性が、そしてそれがもつ固有のテクスチャーが、作品を成立させるための不可欠な要素をなしていることは疑いをまたない。しかし逆説的に言うならば、その表面は強固でありながらも、彼にとっては本質的に“署名しえぬ”テクスチャーを有しているからこそ、重要なのである。彼は表面を私有しようとしないのだ。それは単なる無関心に見えて、実はそうではない。物質としての強固な表面をあえて放棄することになってのみ獲得されるような空間の質を、彼は問題にしているのである。

それこそが場所性の問題である。室内であれ野外であれ、李の作品はある位置を占拠するのではなく、むしろその場の時間と空間とを浸透させながら、同時に自然そのものへと解消されることのない、確かな強度を維持しているのである。それはまた自立した物体の示す即物的な存在感とも関わることのない強度である。

「開かれた拘束性」と彼は言う。「出会いを呼び起こす」ためには「世界と解け合っていながら他のものと隔てられている、作品の二重性」が必要なのだ。それは自然石を作品の中へと構造化し、人工的な鉄板を同じ構造の中に放置するという、在り方の「ズレ」による世界の顕在化であると言えるかもしれない。そのズレによって、作品の構造は開かれ、“それだけで完結した”造形とは別の様相を美しく開示する。

昨年、ミデルハイムの日本の野外彫刻展に出品された彼の作品に私が見たのは、光景を静かに受容しながら、なお“場所”として鮮かに存在している「半透明」の彫刻の不思議な強さであった。そこには何のアイロニーもなく、自らの根拠について言及することもない、無償の美しさが漂っていたように思うのである。

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