中村 ─ 本日はお忙しいところお集まり頂きありがとうございます。今、画廊でモノ派の展覧会をしておりましてこれを機会に後の人がモノ派を知りたいと思う時の為に「モノ派とは?」ということを作家の皆さんに語って頂こうと思いまして御足労いただきました。前回はモノ派の流れを年代順に9人の作家でテキストを作成しましたが、今回は作家である皆様のご意見を伺いたいと思っております。

李 ─ これはちゃんと文字にするのですか。

中村 ─ 致します。この座談会を今回の展覧会のカタログと共にテキストとして残したいと思っています。私共がよく皆様から「モノ派とは?」「“ミニマルア-ト、”“コンセプチュアルア-ト、”また、“アルテポ-ベラ”等との関連性、“具体”との関連性、」「なぜ今モノ派なのか?」ということ、“モノ派”に対する批判について、再制作について、などいろいろと質問される事が多いものですから、その辺りの事を中心にお話頂けましたらと思っております。それ以外にも自由に語って頂きたいと思っております。

李 ─ それからもう1つ、断っておいたほうがいいかなと思うのは、僕らは別にモノ派と言われるものの代表でもなければ、この意見だけで何かを決めるということでもない。やはり、それぞれの3人の意見が出ると、自分個人の話から出発して、少し周りまで、いくらかはフォローできるかもしれない。全体のものを全く3人で対応するというものではない、十分反映できるかどうかはわからない。

中村 ─ ですから、今回たまたま3人にお集まりいただいたので、3人のご意見ということでお願いいたします。

菅 ─ 何か今、僕らは静かなのに、周りがやたらうるさい感じがするね。モノ派だとかモノ派でないとか、何でそうなのかよくわからないんだけどね。現実に、ずうっと70年代から仕事をしてきた人が、もう全然考えてない、今考えたら確かに客観的には見えるけれど、仕事に関連してはもうそれと離れてやっているわけですから、だから、言われるたびに僕なんかは、まあ、いいじゃないというようなことは言うんだけれど、それを一々説明することはしないですね。でもますます何かエキサイトしてくるので、びっくりしているのだけれどね。 それで、これはおそらく美術の問題だけではなくて、文化の1つの要素としてあるわけだから、ファッションとか、いろいろな文学的な要素とか、哲学とか、建築にしたってそうですけれども、そういう全体的な文化の1つの要素として考えていかないと、とてもではないが押さえきれない部分があるような気がするのです。

榎倉 ─ それと、いわゆるモノ派という認識のされ方から、大分時間がたっているでしょう。やっぱりその時間のことで、今までの仕事ととは大分違った人もいるだろうし、いろいろな人の生き方があるわけよね。それが絡んでいて、そういう意味で、例えば僕らの実際に作品をつくっている状態をあまり見ていない若い世代の人たちも、実際どうなっているのだろうという、何かそういうムードがかなりあって。だから、ほんとうのところはどうなんですかという、そういう感じだと思うんだね、言ってみれば。

菅 ─ 僕らが言いたいよね。ほんとうに。

李 ─ もう1つは文化の問題、全般的に70年代のことに関心が集まっているということです。いろいろな分野の70年代再評価のようなこととどこか通底していて、モノ派というのは、問われる時期に来ているのかなという気もするのね。

菅 ─ 美術の流れの中で、僕はかなり去年あたりから、70年代は一応押さえておく、だれかがやっておく必要があるなという気はずうっとしていたから、ある意味で当然そうなっていくだろうという今回の状態を見るんだけど、やはり、単なるリバイバルというのではなくて、美術の中で70年代で、いくら我々がやってきたものでも抜け落ちている部分があって、それを今になって、よくよく考えていくと、再度押さえておく必要があるという状態のところが見えてきたんじゃないかなと、僕はふと思ったわけね、いろいろつくってみて。

李 ─ 徐々にいろいろな解釈の話が出てくると思うけど、大体の70年代前後しての一定の広がりをもった現象を指す。時期的なことは、これも厳密に言えるようなものではないんだけれども、例えば68年ごろが一応物を見ていく上でそう無理のない、始まりの部分かなという気もするんです。 この中ではやっぱり関根さんが須磨でやったようなああいう仕事が、クローズアップされたり、それに似たような仕事がぽつぽつ出てくる。もちろん人によっては、その2、3年前からほかのところにも似たようなことがあったとか、いろいろなことを言う人はいますけれども、それは十分知った上での話なんだけれども、ドーッと似たような現象が一気に出てくるという意味では、大体68年ごろから見ていくということが普通なのかと。

菅 ─ 何年ぐらいまでだろうな、そうすると。僕は、例えば75年というとちょっと不満があるわけね。それで、それから72年とかそこまで言うと、またあまりにも早過ぎて、不満が残るの。それで、どうも後ろのほうの起源というのがよくわからなくて、最初は68年前後だとしても、一体それが、最後のほうがどうなったのかというところは、なかなかみんなわからないんじゃないかなという気がしている。どうなんですかね。やっぱり区切りとしたら74年とか、75年とかそんなものでいいんだろうか。

榎倉 ─ 僕は、ちょっと、李さんが今言った関根君の仕事から言って、その流れが、初めはいいと思うの、僕も68年ぐらいからの動きというのは新鮮に覚えていたし、ただ終わりというのは、やっぱりいろいろな形でつなげながら現在に至っているという、僕はそれでいいと思うんですよね。あまりそこで、始まって終わりという、ある期間という感じはあまりしないの。 だから、徐々にそういう話になってくると思うんだけど、68年というと、僕は芸大の大学院を出たばっかりのときですよね。

菅 ─ そんなに若かった?(笑)

榎倉 ─ そういうもんよ。だから関根君のも僕は須磨 1968年10月1日-11月10日「第一回神戸須磨離宮公園現代彫刻展」 に見に行っているんですよ。だから、すごく刺激を受けていることは確かなんだけど、ただ、徐々にそれからいろいろな作品が出てくるわけだけれども、それも一応僕は立ち会ってはいるんですけれども、立ち会っているというか、見ているというか。それは、確かなんだけれども、やっぱり僕なんかは、どっちかというと、学校で大学院ぐらいまではシュールっぽい仕事をしていたのね。それで、だんだん平面から立ち上がってきて、レリーフ状になったり、それから床を使用する作品、だんだんいわゆるインスタレ-ションになっていくわけね。だから、そういう流れの中で、関根君の須磨の作品の刺激というか、そういうのは確かにあったと思う。ただ、後の、いわゆるモノはといわれる人達とは解釈の仕方が大分違っていたという意識はすごくあって、ずうっと今も持っている。 出発点のときというのは、やっぱり、僕は68年あたりだね。大学院をちょうど出た頃で、出発点としては僕もそんなものかなという感じね。ただ、さっき菅君が言ったように、区切りの問題は非常に難しく、多分後で話が出てくると思うけれども、それなりにいろいろな継承の仕方をしながら、現在も生きているというか、そういう感じはしますよね。

李 ─ ずうっと似たようなことで、仕事を展開していっている人は、ある面であまり区切りたくないということはある。もちろんそのときと今と同じではないんだけれども、微妙なところを抱えているんじゃないかと思う。 それから、そういうことを突きつめていくと、ほんとうにどの人の仕事まで入れるのか。だから、その時期に対しても、その立ち上がりを68年に見るべきだという、これも流動的な話であって。

菅 ─ 実際やっている本人らがモノ派でやっていたわけじゃないから、どういうわけでそうなっていったのかよくわからんけれど、中核になる部分と、周辺的なものの差がすごくあると思うんですね。だから、僕の場合は、中核的に、ある時期、すごく集中してやって、そのいろいろな思考とか意味とか、いろいろな記号性みたいなものを全部排出しちゃって、それを受け取った人間がたくさんいて、それでまた影響されてやっている人がどんどん増えたという、その状況を僕はすごく感じるんだけれど。その増えた人たちがおそらく75年を越えて80年近くまで、あるいはもっとそれ以上やっているかもしれないけれどね。そういうことを踏まえていくと、単なる現象ではなくて、もうちょっと違うレベルの問題として、モノ派みたいな仕事というのは評価されていいと僕は思っている部分があるんですよね。 だからそれをただ、美術のひとつの偏ったというか、突出したような感じではなくて、もっと何か1つの文脈の流れの中で押さえていったほうが、結局美術をやめた人に関しても、あるいはそれを続けてずうっとほかのをやっている人間にとっても、やっぱり何らかの形で捨てきれないというかな、必ず影響しているのが残っているというか、そういうとらえ方をしたほうがいいような気がするね。

榎倉 ─ でも、それは日本だけではなくて、ミニマルア-トのようなアメリカの動きに見ならうものもあったし。

菅 ─ そうですね。アルテ・ポーヴェラにしてもそうだし、アース・ワークにしてもそうだしね。

榎倉 ─ それを思うと、共通するというそういうかかわり合いの中ではすごくわかると思うんですね。

菅 ─ だからその部分が、僕はちょっと希薄な気がするんだよ。確かに個人の歴史の中で、ただ日本にいて物をいじって一生懸命やっていたという、個人レベルの問題はそれでいいけれど、個人が対社会、対世界に向かってある種開いたときに、その向こうにあるものをどうとらえるかということを自分を通して見ていないと、ちょっと小さい気がするんですね、とらえ方が、いろいろな意味で。

榎倉 ─ その辺はあまり触れられないと思うんだな。

菅 ─ ちょっと僕は、するわけだよ。何もどちらがいいというのではなくて、そういう状況の把握の仕方をどういうふうにするかというのは、個々ありますけれど、しかし美術という流れの中で、大きい意味で見ていくと、やっぱりある色合いをもってずうっと流れているわけで、そういう色合いを感じるかどうかということを僕はちょっと言いたいわけです。

李 ─ それはそのとおりで、それを踏まえておきたいというのはよくわかるし、何で言いにくいのかなということは、やっぱりそこから変わっちゃったり、やめちゃったりする人たちがいるので。

菅 ─ それはそれでいいんですよ。

李 ─ 自分の考えたものだけで100%、オブラートに包むような形で仕事をするのではなくて、もう少し自分の考え以外のものとどこかクロスするとか。異質なものを組み合わせで見たり、いくらか外があるような、そういう感じが出てきたのは、多分最も大きな特徴だったんじゃないかと思うんですね。従来の美術の基本は、内的な全体性で表現を閉じるということで、そこのは外部性がない。そこで自分の外の未知性と出会うことが求められたわけです。例えばこちらの限定通りにはいかない石ころだとか、あいまいな土だとかそういうものが媒介になる場合もあるし、あるいは体だとか声だとか、いろいろなものが媒介になって、少なくとも、内部的な構造で完結しない外部性を持った広がりのあるような、そういう仕事にいった人たちだろうと思う。そういう点では、そんなに破壊的でもなかったし。

榎倉 ─ 破壊的というのは、前衛的というかそういうような響きのことを言ってるの?

李 ─ そうそう。そういうのでもないし、その時代に行われた外国のアース・ワークだの、フランスのシュポ-ルシュルファス、イタリアのアルテ・ポーヴェラだのやれ何だのということはよくわからなかったけれども、どこかで暗示的な予感は、僕らはみんな持っていたし、やっぱり時代的な背景というものに対する意識はあったと思う。

榎倉 ─ 僕が感じている、例えば関根君の、前に李さんにも言ったけれども、位相 前期の「第一回神戸須磨離宮公園現代彫刻展」出品、関根伸夫<位相ー大地>(朝日新聞社賞 受賞) のあの土の仕事なんかは、やっぱりかなり関根君の独自性だけででき上がっているわけじゃなくて、今の話と絡んでいくと、やっぱり高松さんなんかの視覚的な意味でのトリッキーな仕事、そういうものの影響というのもかなりあって、それと非常にミニマルな世界に対するかかわり合い方みたいなものの、組み合わせがすごく鮮やかにあったと思うんですよね。それが僕はやっぱり新鮮だったと思うし。

李 ─ また特徴だと思う。

榎倉 ─ うん、だからそのアメリカのミニマルな影響だけでもないし、何か関根君自体の、例えばモノ派の1つの出発点とするならば、それはやっぱり関根君、あるいは周りがそういう状況をそのままつくりだしたわけじゃなくて、いろいろな流れの中から生まれた作品だと僕は認識しているんだけどね。だから彼の須磨の作品には、様々な今日の現代美術においての問題点を含んでいたと思う。

李 ─ 1つは、そういうあるイメージとか、知的なねじれというのか、トリックス・アンド・ビジョンという展覧会 1968年4月10日-5月11日村松画廊、4月30日-5月18日東京画廊「TRICKS&VISION-盗まれた眼」展 があった。菅さんもトリッキーなものを取り入れながら、作品の展開をしたことがある、関根さんだけではなくて、僕はそれを余り積極的にはできなかったけれど、幾つかやってみた。また一方で、例えば榎倉さんがさっきシュールっぽいと言ったけれども、トリッキーなものではなくて、むしろ意識だとか、行為のねじれみたいなものから入っていくという人もいたり、また、僕は初めは批判したんですが、いわゆる言葉を使ったりなんかする人の場合でも、例えば長野の松澤宥、ああいう人の場合でも、どこかひっかかるところもあると思うんですよ。それは、スポッと入ってこないけれども、言葉を使いながらもその言葉に限定されないで、言葉の外の、現実空間を取り込んだような言葉遊びもあってさまざまな外部的な要素が絡んできていて、その当時の雰囲気というか、空気がつくられたのじゃないかと。

榎倉 ─ 僕なんかは、実際、関根君の須磨の作品以後、李さんとか菅さんとかが作品発表をやりだしているのを見ながら、ミニマルな方向性で物体に対する様々な認識を排除していくのじゃなくて、もっと自分の肉体とか、身体性とか、場所性とか、そういう日常的な状態というか、そういうものと絡み合って作品を制作しなければいけないのじゃないかという、むしろどちらかというと、批判的な側面から動いていたわけで、関根君の須磨の作品には、これらの要素がすべて含まれていたと思う。

菅 ─ それはわかったな、ある意味でね。だって、当時、芸大の連中だとか多摩美の連中は一緒に会ったり話したりして仕事をしたでしょう。やはりある意味で違う面を見ながら、ある面で共通していたということが言えるでしょうね。

李 ─ この部分はちょっと意図がおもしろい。

菅 ─ ごちゃごちゃしていたのよ、当時、ものすごく。僕は当時、ちょっと前に戻るかもしれないけれども、60年代から、なぜモノ派みたいなのが出てきたかということをちょっと考えたときに、やはり日本の当時の美術のいろいろな要素というのは、アメリカとかヨーロッパナイズされたものの影響がすごく強かったと思う、それがどんどん入ってきて、ある種の飽和状態、それはおそらくミニマル、プライマリー・ストラクチュアズあたりまでだと思うけれど、その限界に来たときに、ふと感じたものがある。それは何かというと、つまり人間主義みたいなものを感じたわけね。つまり人間主義というのは、意味のレベルということなんですね。人間の意識の問題がすごく先行しちゃって、結局アメリカとかヨーロッパとかでは、美術に関しては人間がやる作業だった。そうすると、人間の内包した意識だけが先行して、それがキャンバスに絵をかかせたり彫像をつくらせたり、ある種の形をつくらせたりというふうにして、あまりにも見えないものを形にするというか、そういう意識のほうが先行した時代だと思うんですね、68年ぐらいまで。 そこでおそらく、にっちもさっちもいかないという状態がきたときに初めて、一体どうしたらいいかというふうになり、やはり人間主義、意識だけの問題じゃなくて、それのもうちょっと前段階の事実のレベルというか、モノが最初にあるんだと、それから人間がある受け取り方をして、何かの作業をするという、そこまでいくんだけれど。まず最初のモノがある状態、最初に何かがあって、その事実を最初にもってこなければ次が来ないということに初めて気がついたというかな。だからそれまでは、そういう事実は関係ない、これはもう、当然あるべきことだということで、捨てちゃってきたのを、68年前後ぐらいに至って、初めて最初に事実があるんだと、現物、モノがあるんだと。そういうときに、それを問題にせずに、一体何で意識が出るのか、そういうことがね、やはり問い直されたという気がするのね。だからある種の具体的な日常レベルの問題が先行する、むしろそれは本来的にはすごく後戻りする状態に近いですよね。最初にどういうものがあるのかということを認識するのは、むしろ人間の意識にしたら、これはすごく素朴なものだと思うんだけれど。そこにまず最初に戻ったというか、戻らなければいけなかったということが問題だと思うんですね。

李 ─ 今、菅さんが言ったことの前提があると思います。 60年代の後半になってくると、日本が、国際的にも1964年にオリンピックができたり、国連に加盟したり、70年でしたか万博ができるようになったりして、自信を持ってくるんですね。そうすると、アメリカやヨーロッパが見える距離意識が芽生えた。それで自分を問い返すという形で、いわゆる70年安保が起こる。60年代後半から全共闘とかいろいろなものがバーッと出てくる。そのときの「わが解体」という、高橋和巳 高橋和巳「わが解体」河出出版 なんかの言葉が非常に象徴的だ。今まで自分を規制していたようなものをバラバラにしてみなければものが見えてこないんだと。かなりGNPも高くなって、社会的に一種の成熟があって、そういう中で従来の概念ではものはもう見えなくなって、おさまりきれなくなるという、一般的な状況があると思う。その状況の中で、音楽や美術や文学や、いろいろなことで似たような現象が起こった。そのときに、美術の場合は、いきなりそこにあるものをリアルに見ようということにすぐいったのではなくて、一たん、今まで一体モノをどう見たかということを検証することとしてトリックス・アンド・ビジョンがあったと。だからトリックス・アンド・ビジョンでほんとうにそこでやろうとしたことは、トリッキーなことで楽しむということではなくて、人間がモノをどう見ているのか、今までそれをどう扱っていたかということを検証するような形で出てきた。例えば関根さんがそれを具体的に大地の中で行ったときに、それはトリッキーじゃなくて、現実として出てきて、物ではなく世界を見るような、そういう視点を開いた、ということではないだろうか。それで、事実関係がすき間だらけに見えてくるという、そういうズレの中で、いろいろなモノや空間の世界が突出してきた、という感じだと思うんです。

菅 ─ 関根さんのは、彼自身、最後の最後まで読み切っていたかどうかわからないけれど、トリッキーに出しながら、全然違うところにいっちゃった、彼自身も驚いていると思うんだけれども、そういう感じがやっぱりある意味で必要な部分もありますよね。

榎倉 ─ だから僕なんかは、さっきちょっと言いかけたのは、関根君がモノの名詞性の埃を払うという、あれなんかは今、菅さんが言った言葉に共通することだと思うんだけど、それと、時代背景は李さんが言った状況、やっぱり安保闘争や学生運動によって、社会的なヒエラルキ-が崩れて、自分で自分の位置を、あるいは日常においてのモノはモノで確認しなければいけなかった時代です。モノというのは何なんだろうというね。要するに名詞性、僕は名称性という言葉をよく使うけれども、モノに名前がついていると、これは何なの、実際どうして名前がついているのかというような、やっぱりそういうある種すごく社会的な意味で不安な時代だったわけですよね。そのために確認しなければいけない問題があって、それが僕らのやった作品の行為だったと思うんだけど。僕なんかは、名詞性というか名称性、どうしてそういう意識を持ったかというと、僕は、さっきシュール的な作品を創っていたと言ったけれども、現代に対する意識としてはやっぱり、ベ-スにはデュシャンの存在があるんですね、僕の中に。デュシャンが作品をつくっているその過程の中で、遅延という言葉をよく使うんですね。デュシャン語録の中に、モノの認識を遅らせるという意味なんですが。その言葉にすごく興味を持っていて、モノの認識を遅らせるということと、それから例えばデュシャンはガラス絵でガラスを使ったり鉛を使ったりする、何かああいう中性的な素材で、作品をつくることによって、物に対する認識を少しづつずらしていくというような、その辺のところにすごく興味を持っていたんですよ。僕の場合は、名称性の剥奪というか、取るというようなことは、かなりニュートラルな物質とか、ニュートラルな認識の仕方というか、何かそういうものの入り口から出てきている感じがするのね。だから、ちょっと社会的な状況がもちろんあるし、僕の場合はかなり個人的にそういう流れを自分の中に意識して、モノとかかわってたという感じがするんですよね。だから、トリッキーの構造とはちょっと違うんですよ。

李 ─ それは人にもよると思う、それも1つのトリックの経路と言えないことはないと思いますよ。

菅 ─ 言葉自体を考えればね。

李 ─ それは、もともとシュールレアリズムそのものが1つの……。

榎倉 ─ それは、言ってしまったらそうだけど、少し意味が違うイリュ-ジョンとしての絵画と物質その物が語る世界とは大分違うと思う。

李 ─ かなり曲がった経路とも十分とれるので。ただ、いわゆるトリックス・アンド・ビジョンの方向の経路ではないことはたしかだ。幾つかのコードがあったというか、経路があったことは確かだと思うんだけども。 だから同じ具体的にモノを使うとか、空間を使うとか何かの場合でも、それぞれの経路の違いは確かなんですが、少なくともそこで見えてくるのは、似ている世界だったといえる。さっき菅さんも言ったように、表現が自分のイメージなり、自分の意識でもってすっぽり包み込むことができるのだという、そういう楽天的にはもうできないということがあった。そうすると具体的な状況なり、空間なり、モノなり、言葉なり、いろいろな世界の関係がどうやって成り立つのか、そういうふうな表現の成り立ちというか、一種の起源が問われるようになったと思う。そのときに非常に大事なことは、ほんとうはみんな個々人に帰って考えていたのであって、一般の制度としてやっていたのではないわけなので、そこが大きな意味での運動と違うところだと思う。とにかくある問う姿勢がそこにあったし、帰るところがほとんどなくなっちゃったのです。いかなる意味でも拠り所を持たないのが僕はモノ派だと。だからこれは危ういけれども強いわけです。80年代の美術の一番の弱点というか、弱さというのは、すぐ帰るところを持っていて、みんな帰っちゃったと思う。みんな華やいで美しくて、ぶよぶよしている、非常にめでたくて安心できるかもしれないけれども、やっぱり絶えず問うものがないというのは、かえってどうでもよくてつまらない。当初、70年代前後の作品は、ギリギリの自分の考えが、体なり行為なり、あるいはモノとの何らかの呼応出来るものとして、そういうことが最低限のところで、支えられるかどうか、成り立つかどうかということが問われていた。そうすると、自分のイメージがかぶせられなくて、目の前にあるものは一体何だろうという、それとの対応関係というものがどうしても大きくなる。そこで、榎倉さんのように自分の行為なり、体なり、つまり身体性を媒介にして、表現というのを展開していく人もいますし、かなりニュートラルにモノの組合せとか、そのずらしとか、そういう組み替えの中で表現を見ていこうという人が出てきたり。

榎倉 ─ それと、何かその時代にミニマルに平行して、やっぱりドイツでボイスなんかが出てきたでしょう、あのボイスなんかの影響というか、僕の場合は、やっぱりさっき言った菅さんとか李さんとか、関根君なんかが活動していたのを見て、僕は違うことをやろうと思ったし、違う解釈でやろうと思っていた。例えて言えば高山君にしても、原口にしてもね、やっぱりそういう状況がありながら、なかなか形にならないときに、やっぱりボイスみたいなのが出てきて、ああ、こういう人もいるんだという、やっぱりすごくミニマルとはまた違う1つの非常に日常性を伴った、あるいは行為性を伴った動きというか、物質に対する解釈も非常に違う方向性が出てきたので、かなり僕なんかは、ボイスの影響っていうのか、今考えるとかなりその辺の刺激が強かったところがあるんですよね。

菅 ─ 僕は、榎倉さんの作品に非常に違うものを見たと言えばおかしいけれども、僕がやっているような感じとは違うものを見たという記憶があるんだよ、なぜかというと、榎倉さんのあれは、おそらくビエンナーレ 1971年9月24日-11月1日第7回パリ青年ビエンナーレ のときかな、木の間にセメントを張った 前出のパリ青年ビエンナーレ出品、榎倉康二<壁>(留学賞受賞その後72年-73年パリに住む) 、あそこでもやっているけれど、あの作品を見たときに、これは正直に言うけれど、僕がやっているようなモノのつき合い方ではないなという気がふとしたの。僕は全然王道を行くというようなタイプの人間ではなくて、あっちをかじったり、こっちをかじったりという、要するに非常にゲリラ的な発想でものを考える人間なんだけれど、しかし、榎倉さんの場合にはすごく王道的な感じがしたんですよね、美術に対する態度というか、考え方が。なぜかというと、やっぱり木の間にセメントを張り込んだということは、そこに1つの空間論も出るんだけれども、それ以前の問題として、質の問題があるわけですね。大体質と量という彫刻概念があるとすれば、そういう意味の質感を変えていくという、非常に基本的な意味でのモノへの対処の仕方というか、立体ならその質量を変えていくという意味で、木の間の何もないところにセメントを埋めた、そこの何もないというモノをある有意性、あるモノに変えたわけだ。そのあるモノがセメントだと。そこで、何もないというその概念を何かあるというモノに変える質感みたいな、そういう認識を僕は感じたわけです。それはまさにずうっと昔からきている彫刻概念を、どんどん進めてきた場合に、当然ああいうところにいくだろうなと、ある種の創造的な範囲だったんですね。それで、僕は榎倉さんはやっぱり王道をいっているわという気がすごくしたわけだ。僕は好きな作品なんだ、あれはすごく。好きだけれど、僕はやれないなあという気がしているわけ。やはり違うところにいたというのがわかります。だから当時いかに大きいフィールドがあって、いろいろな人がそれぞれモノに対するやり方が違っていたか、僕なんかは、例えばミックスト・メディアとか、さっき李さんがおっしゃったアンチ・フォームとか、ああいう1つの記号というのがすごくひっかかるところがあって、それをどういうふうに解釈すればどういうものが出てくるかなあと、それが1つと、それからたくさん当時解体した状況の中で、いろいろなものがとにかく材料として素材として出てきた場合に、1つ1つ再確認し、自分の言葉、あるいは記号性みたいな、意味性みたいなものを突っ込んで、再確認してモノを使わなければいけないという、解体と構築を両方やっていくような状況があそこで僕なんかはあって、それで未熟な意味をつけたり、記号をつけたり、あまりにも難解なことをつけ足したりというのが、間々たくさんあったわけです。だから当時の僕の作品に関しては、とにかくわかりにくいというのは、はい、そうですと言うしかないけれど。モノものそのもの、意味のレベル、両方が動きだして、どこかでそれをミックストしていかないといけないという、何とも忙しい状況だったという気がするな。

李 ─ 2人の言っていることはわかるんだけれども、いずれにしてもそれぞれの出発点というか、コードが、やっぱり違っていると思うんですね。僕などは、菅さん以上に初めはトリッキーっぽいものもやってみたり、あるいは全く概念っぽい方法でやってみたり、幾つかやってみて、全部うまくいかないわけですよ。それで、いろいろなところに出しても、僕は落選ばっかりした経験があって非常に恥ずかしいんで。

菅 ─ 僕だってそうだよ。

李 ─ 菅さんは、いつも入賞でしょう。今回出しているやつも、あれは、どの展覧会に出したのか、ちょっといえないぐらい恥ずかしいんだけども。そのときに、みんないい賞を取ってたわけですね。それで、それを引き上げようと行ったら、僕のはごみ箱のほうに片づけてあったりね。それをみんなが見る前で取れない、そういう苦々しい経験もあったりする。榎倉さんだとか、高山さんに誤解がないように言っておきたいのは、日本で例えばミニマルっぽいと言われても、これはやっぱりアメリカのミニマルとは大分違うと思う。一定の排除の論理というのはある。しかしそれはもっと外部をより大きく関わるための戦略なんだ。そういう意味で榎倉さんたちにもやっぱり一種の排除性というのはあると思うんで。

榎倉 ─ それはあると思います。表現を尖鋭するには、どうにもよけいなものを排除していくということは必要になると思います。しかしそれは、ミニマルア-トにおいての排除という構造とはまた違った排除性だと思います。

李 ─ あるいは切り詰めていったり、我慢したり、もろもろの部分はあるんだけれども。アース・ワークはその当時結構雑誌に載っていましたし、それからミニマル・アートのものも紹介があって、具体的にモノは見られないけれども、間違いなくそういうものを影響として、僕は持っていたと思う。だけども、アルテ・ポーヴェラだとかヨーロッパのものはそれほど入っていなかった、僕の記憶では。そしてマイケルハイザのように砂漠に行って線を引いてみるとか、あるいはロバートスミッソンのように石ころを並べるとかを見て、ああ、おもしろいなと思いながらも、どこかで違っていると感じた。あるいはマックラケンという人が、樹脂板を1本ポッと置いておくのにすごいと思った。しかし、わくわくはするんだけれども、どこかでついていけない。切り詰めたり排除するということは、むしろそれだけのことをしたいんじゃなくて、ほんとうは欲張りで、それ以外のこととかかわるために切り詰めたりすることがあるんじゃないだろうかと。向こうのミニマルだとか、アース・ワークと逆なことが、絶えず僕の中にあって、だから具体的に形式的には、彼らのそういうミニマリズムだとか、あるいはアース・ワークだとかということから刺激を受けたけれども、実際行っていることは、逆なことだったところに面白さがある。

菅 ─ そうですね。それと、60年代はやっぱり概念的に一番、僕なんかがショックを受けたのは、サイトですね。場所という概念がモロに出てきたということですね。それは単に、場所というだけでなくて、今、李さんがおっしゃったような意味で言うと、例えばアメリカには砂漠があるけれども、日本にはない。それで、アメリカの砂漠には、線を引けるけれども、日本で一体そういう意味で線を引くとしたら何もないじゃないか。つまり具体性が出てこないという意味では、もう、場所の概念は要するにアメリカと日本は違うんだと、じゃ、日本という場所に関して、一体どう考えたらいいかということが、やはりそれは自分の仕事、あるいはだれか他人の仕事でもそうですけれども、そういうものを通しながら考えていくということを普通にやったわけですけれど。やはりモノに付着しているんですよね、場所という概念は、どっちにしても。つまり当時僕がよく使った広がりという概念を単に空間が広がっているという意味で言うと、それは何もないということにいってしまうけれど、例えば空間にある限定性をつけると、限定した広がりになる。限定した広がりというのは限られている、つまり境界があったり、物体の形があったりして、広がるところが限られているという意味で言うと、それはモノに、ほとんど密着しちゃう概念なんだね。結局モノがあることは場所ではないかということが生まれてくるわけだ。共時的に成立しちゃう、その概念というものは、やっぱり70年代ぐらいにはもう皆さんやっている方は、おそらく取り込んでやっていたし、僕も考えていたし。それが一体日本の風土の中でどういう場所の概念、あるいは空間の概念をつくりだせるのかということがやはりすごく大きな問題だったんじゃないかと思うんですね。

榎倉 ─ 僕なんかは、その当時はやっぱり風景論的なせかいの見方というのに興味を持っていた、場所そのものの問題とはまた違うかもしれないけど、例えば写真家の中平卓馬さんや、評論家の岡田隆彦さん達のPROVOKEという運動があり、一種の都市論だと思うんだけど、要するにあの時代はさっきの話ではないけれども、僕らが風景そのものの構成する要素をも確認しなければ僕らは生きていられなかったということが、その当時においての日本の空間との関係の仕方だったんじゃないかなという感じがするんですけれども。

菅 ─ 非常に映像的な。

榎倉 ─ 僕は今度写真の展覧会をやるけれども、僕の写真に対する興味の出発点はPROVOKEなんだよね。それは、写真を、要するにボケ写真でいいわけよね、僕の場合はボケ写真ではないけれど要するにシャッターを切るだけで世界と対せるという、そういうことというのは、突き詰めていくと、僕なんかの仕事の中で考えると、やっぱり身体論になってくるわけ、身体と場所性というか、それから身体と物質性という、やっぱりそういう身体的な領域の中で、自分がどういうふうに存在するのかというふうなことを探っていたような気がするんです。それはあの時代、吉本隆明なんかが、『共同幻想論』 吉本隆明「共同幻想論」角川文庫 みたいなものをバンと打ち出してきて、それは都市論になってくるんだけど、そのときに、僕なんかは、ときどき引用するのは、吉本隆明は、『遠野物語』 柳田国男「遠野物語」新潮文庫 の木こりの話を引用しているわけね。ああいう恐怖感によって死に至る木こり達が持つ幻想というのは、はたして何なんだろうというのは、非常に人間の肉体というものと場所とか空間性とか、そういうものが非常に深くかかわっているんじゃないかという、その辺のところを、高山君とかと一緒に、野外展を戸塚でやってた時にはそういう話をしていたわけ。それはやっぱり一種の「場」の問題だし、空間の解釈の中で、ほんとに確認しなければいけなかった時代に、自分たちで開拓した風景に対して、どのように関わるかということで随分話していて、今、菅さんのモノの存在ということとは全く僕なんかは違った意味で、身体論として、果たして空間の場所、物質というのは何なんだろうという問題、それがかなり出発点になっているような気がするんですけどね。

李 ─ 第三者が聞くと、入口をを別にすれば、2人とはそう遠くないんですよ。

榎倉 ─ 遠いと思って言っているわけでもないんだけども。しかし外界との関係の中で、身体的な距離間の違いということは大変大きな違いだと思います。

李 ─ パリビエンナ-レに一緒に参加していたのですよ。彼は木と木の間にブロックを詰めて、セメントで固めている。これはなるほど質量の問題からすると、菅さんが言ったようなとらえ方ができると思うんですね。ただ、もっと別なとらえ方からすると、ある限定された壁ふうなものができることによって、周りの空間が見えてくるという、まさしくそのものが見えてくるのではなくて、周りの空間が見えてくる、これは明らかに前にあったようなものとは違う。それに対して、例えば菅さんはどういうふうにやるかというと、なるほど質量からすると、逆をいっている。枯れ草の原っぱである部分の草を刈っていくわけです。そうすると、草を刈ってないところと刈っているところが何となくぼやけている中に、境界があるように見え、ないように見え、刈ったそのものが問題ではなくて、その外が含まれて一種の幻想性というか、何か表現として見えてくるものがある。これは、榎倉に言わせれば、そこに何かをしてしまうかもしれないけれども、彼はそれをちょっと省くということによって、やっぱりそこで何らかの空間性が出ちゃう。まさしくそのものではなくて、そういう一種の、外部性を持つ仕事として、その当時の現象があったと言って言い過ぎではない。より身体性を強めてかかわるか、そうではなくて、ある人はまた概念から入っていくか。ある人はまたもっと別なコードから入っていくか、さまざまあるのだけれども、いずれにしても、特定なこり固まり、最近塊論を云々する人もいるけれども、むしろ塊論から出ていこうという、出るしか表現はもう成り立ちにくいんじゃないかと。だからバラバラになったりずれたり、あるいはしみ込んだり、そういった現象がかなり大きな広がりをもよおしたんじゃないか。

菅 ─ その意味で言うと、李さんの美術館に角材をロープでぐるっと縛ったのがあるでしょう、柱を 李禹煥<関係項(於いてある場所1., 2., 3.)>1970年8月4日-8月30日東京国立近代美術館「現代美術の一断面」展に出品。あれなんかも、やはり、柱に縛っているけれども、やっぱりその柱の構造が支えている、つまりもっとたくさんの柱の建築的な要素の柱の不変的な1つの要素を押さえ込んだというか、そういう感じがしますね。だから、あの柱だけではなくて、いろいろな柱が、結局同時に縛られているのだというコンセプトがあったと思うんですよね。だから非常にある意味で、入口は違うけれども榎倉さんとか僕だとか、李さんだとか、ほかの方もそうですけれども。ある意味で内側のことよりも外側を、同じレベルで、同じような時間の中で、どういうふうに見せていくか、それを取り込んでいくかということがやはりコンセプトの中で非常に重要な位置を占めたということだったと思いますね。

李 ─ だからそれは場所という言葉になったり、状況という言葉になったりしたんだ。

菅 ─ そうですね。

榎倉 ─ 僕の中でも、やっぱりある意味で共通するし、それとモノ、壁にしても、今の李さんの柱に縛りつけたのでも、やっぱり空間を変貌させるというか、かなりそういう意識もあったと思うんですね。

菅 ─ やはり異物よね。変ですよね。

榎倉 ─ 空間全体を1つのモノのかかわり方で変貌させていくという、変貌させることによって、何か自分との場所性とかかわっていくというふうな、やっぱりそういう意識はありましたよね。

菅 ─ それと、空間を考えたときに、やはりさっき榎倉さんは身体性という言葉を言いましたけれど、僕が、例えば身体性を言うとすれば、身体とモノが隔たっているという使い方をするんですね。でも、榎倉さんを見ていると、どうもすごく近いわけよ。身体性と何かそこの外側にあるものがものすごく密着しているという感覚が僕はするわけ。僕の場合、いつも意識しながら距離を離すという、そういう作業をして物をつくっているという、その違いを感じる。だから自分とあるいはモノの間に何かが、つまり間という概念がそこで当然出てくるのだけれどね。距離を隔てる、空間をそこの間に入れてしまうという発想は、やはり、僕は李さんにも感じるのだけれど、そういう客観と主観を離しちゃうという、そういうやり方というのは、やっぱり当時特徴だったのではないかという気が僕はするね。

榎倉 ─ それはさきほど言った様に大きな違いだと思います。

菅 ─ 大きいと思う。榎倉さんだとか僕の違いをはっきりそこに見るとすればそういう感じですよ。

榎倉 ─ 僕は多分、モノ派であるとかないとか、そういう論理というのは後から出てくるとしても、例えば、この前李さんも言ったけれども原口君にしても、これは僕が代理で言っているというような感じでしゃべるんですが、彼氏は彼氏の考え方がまたあるかもしれないけれども、僕が感じるのは、原口はやっぱり横須賀というアメリカの基地であるという、そういうところから何か鉄性の機械の油の匂いがしたり、国防色の洋服だったり。やっぱり原点は横須賀なんですよ。それから高山だったら、彼氏は家の関係で、お父さんが韓国の人だから、昔はやっぱり韓国の人が強制的にで日本に連れてこられて、線路工夫として労働させられたという、これはどうしても彼の体から離れない現実としてあるわけ、彼氏の中にね。それでずうっと枕木を使い続けているわけだけれども。僕はそれで何かというと、もっと感覚的だと思う、僕の場合はね。そんなに具体的な状況ではなくて、非常に身体的な感覚を何か持っているという。しかし互いの外界に対する身体的な距離感が似ていると思う。

李 ─ 身体と言いながらも、そこを榎倉と高山では違うと思う。皮膚を撮ったりしている、あれを見ると、ほんとを言ってしまえば感覚的な面。高山はイメ-ジ的な面が強いし。

榎倉 ─ だからそれは構わないと思うんだけど。多分そういうのがあると思う、特殊な僕の中にね。そこのところで身体性の距離感が、わりあい共通するところがあるんだよね。

菅 ─ そうですね。

李 ─ 僕自身も身体のことを書いているけれども、実を言うと意外と僕は観念的だった。やっぱり僕は外からやってきたということもあると思うんだけれども、具体的な体験を持ち込んだり、イメージを持ち込んだりすると、自分が足がすくわれてしまうというか、逆に変にリアリティ-強くなるということがあって、その当時のコンセプチュアル・アートの影響もどこかにある。しかし頭の操作でそのままスポッと作品になるのではなくて、現象学的な方法にのっとって具体的な場だとか、モノだとか、いろいろな要素を組み直すことによって、自分の観念にずれを生じさせるというか、あるいは傷をつけるというやり方をした。すき間をつくることができないだろうか。だから観念をあらわすのではなくて、観念的なんだけれども、モノや空間にかかわることによって、別なところへ出てやっていけそうな、そういう感じが僕の中にはありましたね。それは今だから言えるので、その当時は、こんなことは言えなかったと思うけど。

榎倉 ─ だから同じ隔たりと言っても、大分タイプが違う。李さんと菅君とは大分違う。

菅 ─ 僕は、全くこれは僕の個人的な恥ずかしいことなんだけど、しゃべることが中学・高校ぐらいまでものすごくしんどかったんです。つまりこれは親の影響でしょうけど、具体的に見たことを言葉にすることがすごく難しかったのですよ。しゃべれないんですね、結局。つまりある種の自閉症的なものがあって、これをどうにかしたいと、大学に入って、大学でも半分ぐらいはそういう感じで鬱々していましたけれど。つまり、親が後天的に子供に対してどれほど表現的な機能を教え込めるかどうかという、僕はふとそこで考えた。ほとんど僕は教わっていない気がするのです、言葉自体を。それで、親と話し合ったこともあまりない、そういう意味で、一緒にいながら、親が持っている論理的なシステムを全然僕は受け継いでいなくて、自分でそれを発見しなければいけなかった。一々それを決めていかなければならなかったという、初めて言うことですけれど、そういう苦労があった。つまり、最初から学んでいる感じがしたんです、これは何か、これは何かという観念で、一々自分で習って、英語をやるようなものだったのね、僕にとって日本語は。初めて大学に入って、ず-っとね。だから、ある意識とか、思考などというのは学習なんだという僕の勝手な思い込みですけれど、学習して初めてそれができるんだと。そういう感じが僕はするわけです。 その学習が、先入観がなかったということが、逆の意味で表現の中ではあまり汚さずに使えたというのかな、表現意欲を。だから、その点からは非常に、特殊だということは変だけれど、僕の思考形態をつくる上では、重要な点ではないかなと思っています。 それから、一番僕の仕事に関連している意味で言うと、アメリカのアース・ワークだといろいろなところで言っているわけです。わざとではないけれど、とにかくそれ以前の問題はもういいのだと、もうしゃにむに、そこでぶっ切るような感じで、僕はいつも話をするのです。古いモノ、もちろん古いモノの中にも正統的なモノでいいモノもあるし、それはわかりますけれど、そこで、まず始発はアースワークだという考えを持つことによって、自分の中の基本になる骨組みをつくるというかな、そういうやり方をしたんですね。だからそれが成功かどうかわからないけれど、少なくともさっき言った距離感にしても、あるいはいろんなものを統合するやり方にしても、または場所の取り方にしてもわりあいスムーズにいったという気がしています。美術というのは、ある種の歴史性が必要かどうか、個人的な意味でしかないけれど、ある意味で全然歴史に関係なく美術というのは成り立つのではないかという変てこりんな考えも浮かんできたりして。榎倉さんなんかに怒られるかもしれないけれど、突然生まれてくる美術というのがあってもいいだろうと、おそらくそういう、新しいモノを呼び込むために必要な美術というのがあると思うんですね。またそうでないと、僕の場合はちょっとやっていけないようなところがあって、つまり、新しい意図をつくったり、新しい思考をつくったりというふうな考えがないと、どうも美術はしんどいなあと、これは全く僕の個人的なものですけれど、そんな気がふとしたりした時代でしたね、70年代の最初のほうはね。

李 ─ 僕は逆に言うと、そこのところが一番歴史的ではないかと思って。それが、僕なんかがやり玉に上がって、歴史を無視し、否定しているというふうに言われたんですけれども、まさしく歴史を否定しよう、あるいは断絶しようということこそが歴史意識だと。それが歴史になっていくようなものであって、全体性として内的に構造化されたものの持続を求めることは歴史意識でも何でもないと思うし、何もやってないことだと。歴史から距離を取ろうという、そこがまさしく歴史的なものになった大きな意味だろうと思うのです。

菅 ─ どっちにしても持っているからね、個人的にも、あるいはずうっと社会の流れの歴史的な部分というのがあるから。生きていることはそれを受け入れているわけですから、結局は。

李 ─ ちょっとずれて立とうとか、空間とか、場所とかということが出てきたがために言葉にしにくいわけです。しかも言葉こそ脱構築の対象でしょう、あいつらは言葉を否定したからだめだとか、近代性である作品の閉じられた内的な構造を破壊したとか、創ることを否定したからどうのこうのって、それは逆であって、一たんはそういう否定を通さなければ何もならないという、それこそ表現者の当然な主張というか、限定が出てきたものだと思う。

榎倉 ─ それはもう、ごく基本的なことだと思うね。何か菅君の昔の話を体験から作品制作へとつなげて聞くと、よくわかりやすい。おもしろい話だなと思います。

菅 ─ 同じような生活感や境遇を持った人がたくさんいるでしょうけれど、美術をというのは限られているでしょうし、そういう意味での美術のある意味での難しさというか、多様性というかな、難解さといったものを、やはりもうひとつ考えてみる必要があると、ふと思ったりするんですね。なぜかというと、僕は当時、やたら難しい、難解だと言われたわけだ。文章も作品も、とにかくどんな展覧会でも必ずそう言われたね。一体難解という言葉、難解という意味は一体どういうものかというのをずうっと僕はこの20年考えてきているわけだ。全然回答が得られないままなんだな。つまりたくさんいる人間に対して、難解さの度合いは全部違うと思うんですよね、意味性も違う。そういうのを全部説明なんかもちろんできませんよ。できないけれど、それをもうちょっと、一律にわかるような意味で、もし自分が制作したり、できたら、それほどいいことはないと思ってね、しかし、考えれば考えるほど難しい。 それで、最近ちょっと本屋に立ち寄ったら、難解ということが学問というか、批評体系の中にちゃんとまとまって出てくるようになってきているんですね。何かと言うとフラクタルという言葉が出てきたわけです。つまり多様性という言葉で、難解ということを説明しだしている本が何冊も出てきた、最近ですよ。たくさんいろいろなものがある、単一ではなくて、たくさんあるということが難しいのだとね。例えば僕がミックスト・メディアでモノを使い、石や木や、水とか、いろいろなものを使って、それをミックストしちゃうと、すごく難しさが倍増するんだと思うんです。単一に木を使う、キャンバスを使う。そうすると単純に見る人はわかるわけだ。素材に対するインパクトなんか関係ないですから。キャンバスにかかれた絵を見ればわかる、図柄を見たらわかる。ところが、キャンバスの中に木を張り込んだり、石を張り込んだり、鉄をはめ込んだりしたときに、難解になってくるのですよ。必ず難解と言う人がいるわけで、そういう概念がそこで成立する。美術の中で、多様性というのは、僕は無意識にやってきて、もう20年もたつ。初めてそれが言葉として、意味として、ふと出てきたときに、一体周りの人間、受け取るほうの人間というのは、それをどう解釈するのかなと、僕は意地悪に考えたわけだ。僕は、いまだに難解だと言われるけれど、難解でないような方法もやっているんですね。ところが難解でない方法をやっても、また難解だと言われるんだよ。つまり先入観として、もう既にあるのだけれど、そういう難解でない方法、単純にやっている方法に関しても今度は難解だというふうに言うんですね。最初はたくさんいろいろなものがある状態が難解だと言われたのに、今度は単純化して、人間の行為をちょっとつけたら、その人間の行為が難解だと、めちゃくちゃな、僕にとってはやってられないという気がしてくるわけだ。でも、そういうふうにして、僕は20年も難解だという言葉を考えていて、それがようやく最近、1つの文化レベルの問題として難解ということは多様性なんだと言われるようになった。それがいろいろなモノがたくさん豊富にある時代における1つの発想だとして、豊かな文化状況を反映し、とらえていくために、多様性というものをちゃんと見なければいけないということと連動している。もちろん多様性という問題は、もうこれは李さんでも榎倉さんでも、無意識にどんどんやってきているわけですから、持っていると思いますけれど、僕、ほんとにもうそれは、いまだに頭が痛くてね、ついには、多様性ということを形にしたいと、逆に考えるようになった。難解という、言葉をかえれば難解だけれども、難解さを形にしようじゃないか、あるいは見えるものにしよう、そういうある意味では意地悪な考えを僕はふと持ったんですね。それをシステムにしちゃおうと、見えるシステムにして、一体これはどう? と言ったときに、一体観客はどういうか、僕はちょっと見たい気がしているわけだ。

李 ─ やっぱり長い時間を経てきた話だ、今のは。1つの言葉でモノを見ることができなくなったということが難解ということだろうね。言葉があって、それに当てはめればパッとわかるようなことをやってくれればいいのに、もうそういう言葉から大分ずれたところでやっているので、読めないという。そうすると多様性という背景には、一般の市民は言葉を持っていないので、こちらはさまざまなモノを分解していろいろなことを出すものだから、ますます難解になることがあると。 それで、僕はもっと別な意地悪、つまり多様性よりも、むしろ、逆に徹底的にできる限り整備して単純化しようと思っているのですよ。それで、自分の使う素材も極度に、例えば石と鉄板だけとか、初めはいろいろ使ってみたけれども。あるいは絵も、単純に点の1つや2つだけとか。ところがそうやってきたら、ますますこれは難解、整備したつもりなんだけれども、ますます難解になって。

菅 ─ 難解ですよ、おそらく。

李 ─ それで人の難解だけでなくて、僕自身もその中で難しくなって行く。やっぱり非常にこれは厳しい。

菅 ─ どんどん精神的な意味で、非常に高度になっていっていると思うよ、だから難解さは別な意味で入っていると思う、逆に言えば。だから厳しいですよ。

李 ─ つまり言葉がそこに届かないようにますます距離というか隙間ができちゃうんですね。

菅 ─ どんどんなりますよ、それは。おそらく点1つになったとき、もっと難しくなるから、それはもう大変ですよ。

榎倉 ─ わりあい言葉は後づけされなくても、作品自体は主張しているという、そういう構造になっていけば、僕はいいと思うんだよね。だから、作品、意外に余分なもの、僕も排除していくというのを根本的に持っているけれども、やっぱり排除すれば排除するほど、豊かになっていくような構造がおもしろいと思う。

李 ─ 逆な一種のミニマリズムですよ。ある面では。それを排除すればするほど豊かになってしまう、これは近代主義者は何のことを言っているかよくわからない。

菅 ─ そうでしょうね。

榎倉 ─ うん、でもそれはまあミニマルとしても、別にいいんだけれども、ただミニマルの形態ではなくて、もっと精神的なものがあると思うんですよ、日本の場合はね。だからそういう行動の中ではやっぱり、余計なものは排除していくことによって、豊かさが出てくる。豊かさというのは、でも、非常にあいまいな言葉だけれども、できるだけ積極的な1つの主張と言ってもいいかもしれないんだけれども、やっぱりそういうことが日本的なのかもしれないけれども、非常に大事な感じがしますよね。

菅 ─ それは日本的だけではないと思う。

榎倉 ─ ただ、菅君の場合、僕はおもしろいなと思ったのは、難解だ難解だと言われるということに対する、一種のあせりみたいなのが例えばあるとしたら、要するにさっきの話がおもしろかったのは、僕なんかも、前の話にちょっと戻るけれども、やっぱり身体性のことを言っていたけれども、それと同時に例えばあの時代、精神病理学とか、結構いろいろな本が出ていて、僕はかなり読んだつもりだったけれども、その中で、分裂病の患者のモノの観察の仕方とか、そういうのは非常に根本的な話になるけれども、物体の名称性が取れたまま体に迫ってくるような話がいっぱい出てくるわけね。それは前にも話した「遠野物語」に出てくるキコリ達の死に至る恐怖感と共通するんですが、そういう状況というのは、やっぱり菅さんがそうだったというのではなくて、多少やっぱり、そういうモノの認識に対して、非常におおらかだったというか、何かそういう構造を持っていたんじゃないかなという、感じがする。

菅 ─ 存在を、必ず周りにあるモノは認めていかなければならないけれど、全然それを名詞として名前を呼び出せない。つまり無名だった、全部モノが無名で、周りにある。ある種の恐怖感ですよね、これは。だから恐怖感を排除するために、名前をつけたり、いろいろな概念を付着させて縛ってしまうわけですよ。そして、縛る過程が一種のシステムになるんですね。これを作品化していけるわけだから、それは非常に重要な点なんですよ。最初にとにかくたくさん解きはなすということが大事なんで、それをたくさんの小綱をもって縛っていくという過程をどれぐらいできるかということが問題で、もう体力の限りやるしかない。やりながら名前をつけ、概念を呼び出して、それで、ある意味で壁をつくるような感じで、自分の周りを固めていく。そういうやり方しかできなかったわけですね。今、現実には、もうそういうこともちゃんと頭にあるけれど、もうちょっと違う抜道みたいなものがちゃんとわかる気もするのだけれどもね。無名性なんていう言葉は随分使いましたよね。

李 ─ 随分使いましたよ。

菅 ─ それは当然使わなければいけなかった時代でもあった。

李 ─ 無名性の裏には、やっぱり一種のほんとうにそれこそ固有名というか、それに対する意識があったわけで。

菅 ─ そうですよね。

榎倉 ─ それは制度にもつながっていくんだよね。だからやっぱりさっきの70年代のときというのは、そういう制度的な論理というか、社会においてのヒエラルキ-の問題とかそのこともすごく考えた時期だったからね。 だから僕らが高山なんかと「スペ-ス戸塚」と言う野外展をやりだしたのは、要するに美術館とか、ギャラリーの中でやる問題というのは果たして何なのか、また制度の中に組み込まれて作品を発表すると言うのは何なのかという、そういう問題もかなりあったのね。

菅 ─ だから具体的に、作品、例えば1970年の近代美術館のときだって 前出 東京国立近代美術館「現代美術の一断面」展 、結局は、李さんは柱を使ったり、僕も壁を使ったり。アルミサッシを使ったり、実際、建物の要素を自分の要素に使うのは、随分文句が出たんですよね。してはいけないとか。

榎倉 ─ 壊れるとか。

李 ─ 柱はだめだと言われたんだよ。しかし僕は柱と関係を持ちたいわけで 前出 李禹煥<関係項(於いてある場所1., 2., 3.)>

菅 ─ でも、それは当然そういうふうにしていかないといけないシステムになりつつあったからね、あのときは。だから、結局自己の作品を規定するのには、建物も含まれ、それが建っている自然も含まれるというある種自然主義みたいなのとが当然出てきてしかるべきだったね。1点からずうっと拡大して、無限に広がるというふうな感覚が僕はずうっとあるな、まだ。

李 ─ 例えば、吉田克朗は、ある時期からいわゆるモノや空間やそういうものとかかわるような仕事をやめるんですね。彼の仕事、例えば壁をずうっと一定の幅に塗って、そこにワイヤを張ったり 吉田克朗<赤・ワイヤーロープ、壁など>1971年、すごく緊張感があって、僕はあれ好きなんだけども、あるとき、それをやらなくなった。なぜやらないのといったら、いや、僕は最近、ちょっと、自分の仕事に納得行かないものを感ずるというんだ。それはどういうことかと聞いたら、場とか空間に寄りかかるということが、ちょっといやになったと、こう言うのです。それから彼は、版画を通してなんだけれども、やはり他人の手をあるいは機械を経るようなところがワンクッションあって、それからタブローへ行くんですよ。真っ直ぐタブローにはいっていない。それでだんだん自分て全部決める、そういう仕事に行く。結局、タブロ-であろうと、場であろうと、自己完結的な内的な構造だけで成立するモダニズムに疑問を持った人達、つまり何かとのかかわりで持ってやっていこうという人だけが、モノ派的な仕事を続けていくことになっちゃったと思うわけです。やっぱり自分でやってることはほんのわずかな拘束力しか持っていないという自覚ですね。一種の諦念というか、不安感というか、ほんと限られたある限定しかできないのじゃないかということ。だから、際限なく広がるようなそういうところで、自分がどの辺までかかわり得るのかという、ほんとはすごい欲張りなわけです。いわゆるモノ派と言われている連中ほど欲張りは僕はないと思う、表現を試みる人たちの中で。自分のエゴだけを対峙化させてるのではなくて、宇宙までも、どこかでかかわりができないだろうかというべらぼうな野望というか、欲望を持っている。ただ、自分の中にあるものを外に出すのではなくて、内と外を切り結ぶことによってもっと大きく世界と関われないだろうかという大変な欲張りの集まりだったのかな。

菅 ─ 李さんは関係項というタイトルを使ってやっていたでしょう。あれはやはり今おっしゃったようなこと、例えば関係というような、間的な概念が出てきて、その中に位置という、認識がはっきりしていないと、関係項というものはおそらく出てこないでしょう。つまり位置というのはある種の世界像の出発点みたいな感じであるんですよね。それは李さんの場合もそうだと思う。位置というのは、ある意味で場所性みたいなものにくっつくんだけれど、空間をとらえるときの最初の位置、それがまず外にあるか内側にあるかという問題になると、68年以前は内側にあったんですよ。ところが、68年以降は外側に出てきたんですね、位置という概念が。その辺にあるようになってしまった、モノに付着して。そうすると、そのモノをまず見つける、モノを見つけて、まずパッと置いたときに、それはモノそのものという、これはよく言われたそのものですね。そのものを一体どういうふうに保たせるかという問題になってくるんですね。そうすると、やはり李さんがよくタイトルにおつけになった関係項、何か別なもの、全然関係ないけれど、ある種ここに、わかるような意味での関係づけるものが必要になってくるんですね。それがあって初めて、その位置にあるものが非常に起立して見える、システムとして見える、作品として成立するというふうに。そういう作品の形態、作品のあり方みたいなことが、やはり全然、前と後ろでは違っていて、外側にある位置の認識みたいなものがずうっといまだに続いていると僕は思うんですけどね。

李 ─ そのとおりです。60年代後半から、自己完結的な閉じられた一種の知の体系というものに対するいろいろな壊疑があった。みんなそれぞれ個々人においても起こったと思います。その当時、僕はハイデッガ-やメルロ・ポンティなどの現象学的方法にいかれていて、西田幾太郎の場所論を借りるのもそのためなんですが、要するにモノを見るということは、自分が一方的にアイデアを追っかぶせて見るのではなくて、向こうからもこっちが見られているのだと。だからそれが当時認識とモノとのズレから来る距離感としてわりとぴったりきていた。対応関係の状態、つまり、向こうからもこっちが見られているという相互限定の意識があって、塊的な対象物としての作品ではなく、ものやら空間が開かれていく。そういう中間項をなすような場を示さないと、新しい表現にならないんだと思った。こっちから一方的に意味づけしようと思っても、何か名前をつけようと思っても、なかなかついてくれない。だから、お互いが緊張関係でもって成り立つようなそういう項をつくろう、1つのカギカッコをつくろうということが僕の方法だった。

榎倉 ─ ただ、やっぱり李さんの場合は、すごくその提示の仕方が、さっき言ったことでわかるんだけど、概念的な構造で提示していたと思う。メルロ・ポンティなんかでも、どこか身体論的なことが必ずあるわけで、僕なんか言葉でよく使うのは、意識の反射板とよく言うんだけど、やっぱり外界に対して意識をぶち当てることによってはね返ってきた波長みたいなのがあって、それがリアリティを持って成立させていくという、それは僕が先程から言っている外界に対する身体的な関係に共通する問題なんですよ。だから李さんの関係項のシリーズというのも、やっぱりすごく総合的な構造の中で探っていくとよくわかるんだけども、やっぱりかかわり合い方が大分違うなという感じがすごくするのね。だから、僕なんかも最近の作品に「干渉」というタイトルをよく使うけど、あれも一種、外観とのコンタクトの取り方の振動率みたいなもの、そういうものを自分で抽出したいというか、現出させたいというところがあると思う。

李 ─ 不思議だな。そういう外界との関係というものは、あの当時僕らは明確ではなかったけれども、みんなそれを持っていて。

菅 ─ やはり68年ぐらいまで、内側のことしか絵にしたり彫刻にしなかったんですよ。つまり意味としてしかとらえていなくて、形のないものがアートだと思っていたんですよ、おそらく。その後、結局そうじゃないんだと、もうそんなものはいくら形にしても、それはもうそれだけでしかないじゃないかと言うことが分かった。もっとたくさんのいろいろな物が、あるじゃないですか、形になるものが、自分の周りには。一体それをどうするのかということが出てきた。

李 ─ 何か幕が破れちゃったんだよ、だから見えたんだよ。

菅 ─ そうでないと、やはり、もう広がり得なかったんですね、当時としては。僕、今、榎倉さんが干渉と言ったような意味では、僕の場合には依存関係というふうな、依存ということを持ち出して、やはりそれは外界をとらえる、1つの世界像をとらえるやり方として考えたわけですけれど。それぞれ、自分の身体的な計りの仕方で、いろいろなことは思ったと思いますね、それは。

李 ─ その辺がほかのアース・ワークとか、アルテ・ポーヴェラや、いろいろなところのとの違いだと思うんですよ、それは。彼らは、いろいろな素材を使うけれども、やっぱり内的な構造性や閉じられたイメ-ジ性が強い。

菅 ─ それはやっぱりヨーロッパの哲学とか思考とか、そういうもののレベルと、それから美術の。

李 ─ ほとんど外はないね、彼らは、どこまで行っても自分の延長。

菅 ─ ないですよ。内側の話なの。ヨーロッパ的思考の限度なんです、それは。外をいくら認めても、対立関係でしかとらえないという。

榎倉 ─ アース・ワークでもそうだったね。

菅 ─ そうでしかないんだ。人間と自然というふうにしかとらえなかった。ところが僕らは違う。外にも人間性はある、内側にもある、内側の視点はあるし、外にもある。そうすると、非常に流通しているわけですね、その感じでは。だから、必ずしも人間が名称をつける主体でも何でもなくて、向こうに初めからあるもの、それをどうして認めないかということがまず問題だったんですよ。あるんですよね、おそらく。

李 ─ 結構さめているんだと思う、モノ派と言われている人たちは、とっぷりつかったり酔っぱらっている人はほんとにいない。

菅 ─ 高山君ぐらいかな。(笑)

李 ─ やっぱり自分のきわどさというのは、みんなわかっている。80年代を見るのだけれども、共同体というかよりどころがある人というのは弱いと思うんだ。絶えず自分の危うさというか、どこに立っているのか、周りのものが気になるところから出発するしかない。僕は作品というものはひとつの対話形態だと思うわけ。それでほんとうの対話というのは、それこそお互いの違いや、自分ではないものにぶつかったときに成立する関係なんであって、そうでなければ、結局なあなあのモノローグでしかないんでね。そういう、なあなあをやらないというところが、モノ派の成立だと思うんです。

菅 ─ それを表現にそって言うと、例えばある種のトータリティという、全体性というようなことが当時言われましたよね。それがかなりシステマティックに作品に反映したと僕は思っている。部分ではなくて、作品というのは、でき上がったものではなくて、それを含めたもっと大きい意味の世界像なんだという意味でのトータリティだと思うんですよね。そういう考えが、これは高松さんなんかの後期の作品にも反映していて、作品そのものを出したけれど、それを支えるもっと裏の世界みたいなものがあって、それを含めて考えないといけない。そこを言うのに、全体性みたいな、あるいはトータリティみたいな、そういう認識が出たと僕は思っています。やはり僕も、それを随分考えましたものね。いろいろなニュアンスを含んで、全体性、トータリティ、あるいは「それ自体」、僕なんかが言うのは「それ自体」、それから李さんが言う「そのもの」とか、そういういろいろな言い方の違い、それはむしろ厳密に検証しないといけないと思うんです。全部一緒くたにするんじゃなくて、それぞれが言ったことを1つ1つ、彼はああ言った、榎倉さんはこう言った、僕はこう言ったというふうにして、1つ1つのニュアンスの違いを、つまり差をそこで検証しないと、具体的な当時の70年代の思考形態というか、美術のカテゴリーみたいなものが、きちっと出てこないんじゃないかという気がしています。 具体性が今まで少ないような気がする。いろんな意味で、概略は語るけれど、70年代を押さえている1つ1つの言葉の差みたいなもの、あるいは記号の差、モノの考え方の差を、押さえてない気がするんですよね。どの部分をどういうふうに言うのかということね。

榎倉 ─ 何を言っているのかということでもあると思うんですね。

菅 ─ それを批評家も含めて押さえてないと、概略はこういうところから生まれたとか、こういうニュアンスだとかいうけれども、何も出てこないんですね。

李 ─ 話のついでだから、僕は明確に言っておきたいのですが、峯村さんがモノ派の展覧会を組んだり、テキスト書いてみたりするということで、当時のことを目撃していないのに、彼は積極的に、後になってそういうものを取り上げたということにおいて、僕は一面、大事な仕事をやったと思うんだ。ただ、彼は、モノ派の概念規定に非常に困ることがあるのね。その困ることの1つは、モノ派は、従来素材でしかなかったものを主役に持ち込んだという、これはとんでもない。だからモノ派という言葉はすごい誤解を受ける。モノ派はものを見せるとか売り物にしたとかいわれる。主役という概念を解体し作品をより開かれた場にしようというのがモノ派なわけです。目の前にある石ころであろうが、それこそコップ1つであろうが、油であろうが、そういうものと人間をお互いにもっと緊密な場として、あるいはもっと観念的な関係で移し替えたり組み直したりして、ズレのハザマというか何か中間項的な状態にしてみようじゃないか、今の言葉でいえばものを空間との関わりの中で脱構築するということですね。こちらの一方的な言葉で従来のような構築性をもたせることは出来ないんだという懐疑が既にあって、そこから出発したんです。だから、塊をつくるということが従来のつくるという意味であれば、僕はそういう意味でのつくるということは反対すると言った。それで、制度側や塊論からモノ派というのはエアポケット現象でだめだといわれた。だから、塊論者が菅を評価するというのも、これもおかしな話だよ。 例えば僕は、何回もよく使った、“あるがままをアルガママにする”、これも批判の的だったわけですけれども。これをあまりにも七面倒くさく取る必要はないんですよ。例えばここにあるような、ごく普通のこういうあり方から出発しようと、その次のあるがままというのは、例えば平仮名から片仮名にしようというような移し替え、組み直し、ズラシなどそれが表現だと。そういう極めて普通の意味ですよ。どうしてそれが変な実体があるみたいに、解釈が行われるのかわからないけれども、表現者がやれることは、ほんのちょっとしたことしかできないものだという、そういう限定がこちらにあるわけです。

榎倉 ─ 峯村さんのモノ派というのに対する方向性にはヒエラルキーをはっきりつけていて、彼の「塊論」を先に見ながら選択してると思うんですよ。ここに中村さんがいるけれども、鎌倉画廊でモノ派展をやったときには、あのカタログの中では、わりあいと相対的な問題を抱えていたと思うけれども、セゾンでやったときには、完全にモノ派をヒエラルキーを持って並べ変えられていたんですね。だから僕らは峯村さんに詐欺にあったみたいなもので。要するに僕はあの後に西武 西武美術館「もの派とポストもの派の展開 - 1969年以降の日本の美術」展1987年6月26日-7月19日 でやるということは一言も知らされていなかった。ほんとに恐ろしいぐらい。中村さんのところでやった 1986年9月8日-10月18日 鎌倉画廊「モノ派」展 写真や資料が全部使われた。それも一言のあいさつもなしに。

菅 ─ ないの。

榎倉 ─ ないですよ、全然。それですりかえられているという、そういう感じで僕なんかはとっているわけ。まあ、高山も原口もそうだけれどもね。それは完全に1つ、でっち上げようとしている姿勢しか僕なんかは残らないわけよ。ああいうことをやられると、今、李さんと菅君と話していると、やっぱりいわゆるモノ派にも共通点を見つけることができるし、いろいろ豊かなものだと思うんだけど、そういうのが消えちゃうんだよね、そういう形になっちゃうと。だからやっぱりこれは、一番初めの話ではないけれども、もう1回そういうものを、菅君も言ったように、1人1人のいろんな感性がどういうものであったかということを検証するような動きというのが出ないと、ほんとうに、これから外国で、多分モノ派系列の作品を発表するような時でも、峯村さんのところを通してしまうと、どうしたってある一定の人たちしかチョイスされないだろうし、ほんとに浅いものになってしまうんじゃないかな。

李 ─ それは菅さんを峯村さんが高くかってくれるから、菅さんには言いにくいことだけど、やっぱり彼がそうなった経路を僕はわかるんですよ。初め、鎌倉画廊のテキスト 峯村敏明「モノ派とは何であったか」前出、鎌倉画廊「モノ派」展1986年 カタログに収録 をこしらえるときまでは、まだ彼の中ではっきりしなかった。徐々に、彼は塊なるものという意識ができるようになるんですよ。そうするとそれに合わせて今度、ポスト・モノ派という、だんだんそういうようなイメージをつくっていったんだと思う。そういうイメージをつくるに当たって、モノ派というのは、だんだん邪魔くさくなるでしょう。ひとつの塊として閉じるモダニズムからモノとモノの間にスキ間を作ったり、そこから何かが浸透されたり外部と手を結ぶような一見バラバラな状況的なものでは困るということになった。モノ派と言おうとなかろうと、これは当時の世界的な現象です。現代美術と言われるようなものの中で、発想としては一種のポストモダンのはしりともいえるし、どうにもならないぐらい1つの大きな特徴、あるいは性格になっていると思うんですよ。もちろんモノ派はポストモダニズムではありませんがね。いまさら1つの、こり固まりを全体性を作るということは、なかなか難しいのじゃないかと僕は思う。むしろ、外界を抱え込んだそういう総合性が、大事なんだ。いろいろなところの国々が独立したり、みんなそれぞれがお互いにその国やいろいろなものが対応関係でやっていこうということにまで広がるぐらいの、そういう一般性のある話だと思うんですよ。 1人1人が使う言葉も、文脈を検証することなく勝手にその言葉だけ取っておかしくしてしまったりすると、全然具体的な作品が見えないわけです。それが一番心配。

菅 ─ 峯村さんの場合は、今言ったように、塊何とかかんとかって、僕は最初聞いたとき、まああり得るだろうなという気はした、ある意味で。それは悪い意味ではなくて、当然そういう体質でしょうという気はしていましたから。つまり、塊ということは、最初に僕、ちょっと言ったような気がするけれども、ある種の人間的なレベル、つまり内側の話というのか、内部の意味の問題としてしか美術をとらえられなくなったということ思うんですね。68年ごろまで続いた輸入品の人間主義は終わった、次から僕らが始まったとすれば、それが何年か続いて、彼もある程度わかったかどうかは別にして、ある意味で飽きがきたわけですね、モノは無限にあるのですからね。それを一々規範として設定していくのは、ものすごいしんどい話なんで、それを実作者でも当事者でもない人間が、批評家がやるのは大変だということは僕はわかります。だから当然それはやめてもいいと思うんですけれど、峯村さんはそれをやめた上に、それをもっと正当化しようという感じになった。塊は、昔で言う彫刻的な意味ですよね、つまり質量の世界に入ったほうがずっと楽なんですよ。

榎倉 ─ だから内部にあるやつをまたモチーフを……。

菅 ─ 内部、つまり意味の世界を表現する形が必要だ、これが塊主義になったんですよ。だから、そういう意味で言えば、完全に後退ですね。それで、これまでのモノがある世界をくるっと全くかえてしまうということではなくて、流れとして、70年代からずうっと別な意味で世界ができ上がりつつあるのに、それを無視して、全然それまであったものをなかったことにしちゃうというのは、これは全く乱暴なんですね。それはやっぱり続いているものだとしないと。だって僕なんかが作品をつくるのは、やっぱり70年代のいろんな考え方が土台になって、それを進展させながらきているわけですよね。そういうふうなある種の個人的な踏み方を全く無視するようなやり方というのは、もちろんいけないわけだし、もっと作家に対してアプローチするのなら、そのあたりの70年代のモノ派と言われたような作品をつくった時代は一体何なのかと、一体なぜああいうものをつくったのかということをもっと考えてみるべきですよ。現在をもし考えるのなら。それをしないで、あ、今こういうものになってしまったからもうあかんわ、そういう言い方というのは誰にしてもよくないですね。

李 ─ 峯村さん個人の問題ではないの、これは。

菅 ─ やはり長年積んでいる、それぞれの持っているモチベーションをきちっと踏んでいかないといけないんじゃないか。

榎倉 ─ だから峯村さんは、カタログ 前出、鎌倉画廊「モノ派」展1986年 カタログ の中では、要するに芸大系とか、多摩美系とか、何を言っているんだと思うわけよ。プロ野球の出身校じゃないというんだよね。出身がどこだとか、何にもならない。

李 ─ 独立した一人の作家としてみないと。

榎倉 ─ それから千葉さん 千葉成夫: 美術評論家 だって、「真正」とか「続」とかね。何言っているんだよ、「ロッキ-」とかの映画じゃないというんだよ。

菅 ─ 新党をつくったんじゃない。ある意味で。

李 ─ あれはほんとに宗教論みたいで。

榎倉 ─ ああいう軽薄さというのは耐えられないわけよね。でも、ある意味ではあれが1つの形式になって、例えば外国なんかでやっているメンバーにしても、何かやっぱりそこでヒエラルキーをつけられた人が行っているような感じがするわけよ。

李 ─ いやいや、そうはならないはずだ。

榎倉 ─ それも、チョイスするのは外国の人でしょう、初めはバルバラさん バルバラ・ベルトッツイ: 1988年4月29日-10月15日「モノ派」展 ローマ大学での「モノ派」展キュレーター でしょう。今回はモンローさん アレキサンドラ・モンロー: 1994年2月5日-3月30日「戦後日本の前衛美術」展 横浜美術館、1994年9月14日-1995年1月8日「Japanese Art After 1945 Scream Against the Sky」展 Guggenheim Museum, SOHO、キュレーター でしょう。

李 ─ やはりそういう意識はあるの、ほんとにモンローさん。びっくりしたけども、あるんだ、それが。

菅 ─ あるんだよ。

李 ─ それでまだ何というかというと、菅さんは早く帰っちゃったから読まなかったかな、いわゆるモノ派という作品のコーナーに、ずうっと解説文が貼ってあって、その中に日本のモノ派はブッディズム、神道イズム、タオイズム、シャマニズムの何とかかんとかと、それ、冗談じゃないよ、何を言っているんだって、ほんとに僕は怒ったけどね、そうしたら彼女はへらへら笑っているの、こっちは怒っているのに 「Japanese Art After 1945 Scream Against the Sky」展について1994年9月14日-1995年1月8日/グッゲンハイム美術館、ソーホー分館(ニューヨーク) その後1995年5月21日-9月3日/サンフランシスコ近代美術館へ巡回

菅 ─ それ、まずいよ。抗議しなきゃだめ。

榎倉 ─ それはわからないよ。

李 ─ 冗談じゃないと思うわけ。

菅 ─ まずいよ、そんな、横浜 横浜美術館 がかんでいるのなら、ちょっと注意しなきゃな、それは。

榎倉 ─ かんでいるよ。

李 ─ 今回もちょうど僕はオープニングパーティのときに現場にいたわけですけれども、ヨーロッパでされた質問と同じ質問を受けたのね。僕の作品の石を見て、この石はあなたが選んだか、そうだ、この石はあなたの言うことをきいているのか。日本ではこういう質問は絶対ないよね。

菅 ─ 聞いているというのは、ヒア?

李 ─ この石は、多分僕の言うことはよくきかないですね。じゃ、どうするんだというんですよ。だから僕の言うことをよくきかないから、そういう解らない部分を抱き合わせて作品にしたいと言った。そういう話をしているときに、またほかの評論家みたいなすごく分かるのが来たの。僕も拙い英語だけれども、三人で議論しているうち、その2人がけんかになっちゃったわけ。おまえはばかだ、自分以外の要素を持ち込もうとするからこれはおもしろいんじゃないかと。

菅 ─ 見ていたの。

李 ─ そういう場面が出てくるのがまさしくモノ派と言われる作品だと思う。だからそこで、初めの質問者の、この石はおまえの言うことを聞いているのか、この人は永久に僕の作品はわからない。要するに僕の考え100%スポッとなってなきゃならないはずなのに、何だか変なものがそこにあって、ギクシャクしているように見えちゃったわけ。多分その人には。 おもしろい体験だったんだけれども、自分以外の要素というか、外部とのかかわりということに関心を持つ欧米の人たちと、そういうものに関心のない人たちというのは、今、ちょうど境目に来ているんじゃないかな。

榎倉 ─ それでやっぱり、美術館なんかの若い学芸員なんかでも、来年なんかも多分ある動きがあると思うけど、やっぱり若い世代がいわゆるモノ派と言われている人たちというのはどういう構造でやったのか、すごい興味を持っているわけよね。外国の人が、今の話ではないけれども、それと同じような、そんなに変わってないんですよ。だから……。

李 ─ もっとたちが悪いかもしれない。

菅 ─ 逆算していけば、当然突き当たる部分ってあるわけだから、突飛でもなく突然生まれた竹の子みたいなものではなくて、やっぱり竹が生えていて竹の子が出てくるという、その論法をきちっと押さえないと、なかなか……。

榎倉 ─ それで、僕が考えているのは、峯村さんがヒエラルキーをつくってしまったことを、ある意味で僕なりに、やっぱり今になって一番初めに言ったように時間も随分たっているわけだし、そういう中からもう1回、大きくとらえ直すというか、大きく確認し直す動きというのはやっぱりあってもいいと思うし、やっぱりその中から、また外国なんかで発表するときにでも、そういう大きな渦の中でやれるかどうかということも、すごく大事な問題になってくるはずなんですよね。

李 ─ そう思います。

菅 ─ 峯村さんの場合には、問題は要するに否定的にとらえるからまずいのよ。

李 ─ 初めから。

菅 ─ それはモノ派だけでなくて、要するにあの時代のあの部分を否定的な美術としてとらえているということが、完全にこれは、ネガティブなんですよ。

李 ─ それは、後のつくるということに。

菅 ─ つながらないんですよ、彼自身が。

李 ─ そうだね。

菅 ─ 彼自身の質の、要するに塊までつながらなくなっちゃうの、あの部分を抜かしたら。

李 ─ そうだよ。

菅 ─ ポジティブにとらえないと、彼が今言っているようなものは出てこないわけでしょう。なぜそれをネガティブにやるのかということが、僕はすごい疑問なんだよ。だれもそれを要するにネガティブにとらえる必要はないですよ。どんな批評家でも。または作家だって、そこの部分は、みんなそれ、ちょっと今いやがっているからやめようとか、そんな感じでもし考えたとしたら、それはやっぱりおかしいと思うな、僕は。個人的な歴史の中でも、やっぱりそれはきちっとポジティブにとらえて、どういう判断をしたら、この部分は必要だし、この部分は要らないんだという区分けをきちっとした上で次にやらないと、いずれにしても、その個人も大変だし、周りにいる人間も大変だという気がするけどね。

中村 ─ 最近再制作について、皆様からよく質問を頂戴致します。特に美術館からの質問も多く、非常に難しい問題だと思うのですが、作家の立場から再制作ついてにいかがお考えになっていらしゃるのかお話頂ければと思います。

李 ─ 再制作について、一般論としてはさまざまあると思うんです。ただ、ここで一般論を言うよりも、やっぱりモノ派と言われている人たちの作品の特徴からして、再制作をどう考えるかということが1つある。現代美術においては、再制作ということはある意味で当たり前みたいになっている部分がある。どのような作品であろうと、と言ってもいいぐらいに、現代美術全般に。ただ、再制作という言葉を使っていいかどうかということもまた難しい問題なんですが。モノ派における再制作ということは、ほんとにこれは真剣に考えざるを得ないんだけれども、それこそ再制作、再び同じものをつくるという、この言葉は自己矛盾しているんですね。全く同じものをまたつくるということには、やっぱり帰れないと思うんです。 モノ派の場合に、先ほどさんざん論議されたように、モノだとか、場だとか、時だとか、そういう要素の相互関係の中に成り立っていたということが大きな特徴なわけです、作品が。そうすると、いくらかそういう要素が単純化できた作品は残るけれども、具体的にいろいろな場や空間と関係があったり、モノとモノが非常にシビアに関係のあるような作品は、残りようがない。常にその時と場に応じて作品が変えられるんだというか、その時と場に応じて作品が成り立つんだということが根にある。ですから、ほかのモダンア-トというか、自分の内部にあったものを完潔傑的に外に対峙化して閉じられた作品をつくるという人たちが、再制作をするのと、常に対応関係で作品が成立したり、場が出来るという人たちの言う再制作とは、おのずから意味が異なってくるということです。ですから、モノ派と言われている人たちがつくる再制作というような作品は、初めから再制作的な要素を持っているものである。これは決して、自己合理化の問題ではなくて、その発想の根源的な要素が、絶えずそういう相互関係性を抜きにしては成り立ちにくいということです。したがって、そのときに具体的に使ったものを捨ててしまったり、保管できなかったりするということが、ちっとも矛盾しない。それで、今、新たにそれをつくれば、同じじゃないじゃないか。そのとおりだということでいいと思う。ただ、そのコンセプトというか、そのモチーフは同じもので、その当時の年限と、今の年限を並列的に示すなり何なり、それはそれぞれにやり方があると思いますけれども、少なくともモノ派に関してである限り、再制作ということは十分あり得るし、それをとやかく、昔のままでなければだめだという発想は、モノ派的な発想を否定するようなことでしかないと僕は思います。

榎倉 ─ 僕もそう思う。だから、例えば作品によって、再制作が不可能なコンセプトというの、それはあると思うんですよ。でも、それはそれでいいと思うんだけど、だけどやっぱりコンセプトが非常にふくらみのある大きいものであれば、何回繰り返しても、それはそれだけの存在感を持つはずだし、そういう構造で作家というのはかからなければいけないと思うんだね。だから、僕は全然、構わないと思うね。ある意味で、例えば絵の人は再制作って何かと言ったときに、やっぱり絵だって、僕は作家が100点つくったら、いい仕事って何点かだと思うんですよ。ほんとに10点以内だと思うね。全部いいということはあり得ないと思う。ある意味で再制作ですよ、それは、繰り返しなんだもの。それで疲れてくればやめるかもしれないけれども。ほんと、数えるほどですよ。いいなというか、それは自分のことも考え、李さんも自分で考えればわかると思うんだけど。やっぱりそういう状況はあると思うんですよ。だから、そういうことを考えれば、いわゆるモノ派といわれる人達の作品は、再制作が不可能だとか、そういうことはあり得ないので、コンセプトがしっかりしていれば、何回やっても僕は構わないと思います。

菅 ─ 僕は、再制作していいかどうかということでは、現実にもう再制作しているわけですよね。最近パラフィン 菅木志雄<並列層>1969年 をやってくれっていうのがすごく多いわけだ。ニューヨークでもやった、横浜でもやった、今まで西武でもやった、もう4回か5回ぐらい。材料は工業生産品ですから、同じですよね。だから、再制作する上で問題はない。ただ、構造的な意味で、同じ形でもやっぱり場所によって違うんですよね、つまり影響力が、作品に対する。だからそれを考慮しないといけない。例えばニューヨークではちょっと中にサンを入れて強度化したりして、そういう感じの……。

李 ─ 今までの中で一番よかったよ。

菅 ─ と思います。だからいろいろな意味で、いい方向で、コンセプトが同じでも、結局やるたびにどこかちょこちょこっと違うわけだから、その違うところを自分で容認できるかどうかという問題だけなんですよ。だから、要求があれば全部断れとか、そういうのではなくて、コンセプトを踏襲しながら、やれるものはやる、やれないものはもちろんやれないけれど。きょう午前中、ちょっと考えたんだけれど、例えば1点再制作するのと、同じものを5点やるのと、一体どう違うのかということをふと僕は疑問に思ったわけだ。それで、1点やってそれで1点なら罪は免れるかというと、どうもそうじゃなくて、5点つくっても結局同じではないかと、場所によってね。そうすると、これはもう1点つくっても5点つくっても、20点とか100点つくっても同じだということになると、再制作という意味で言うとそれはまず容認しないといけないなあと思う。ただ、それぞれのやり方があり、だれが持つとか、どこに置くとか、あるいは、僕のそのときの体の調子はどうだとか、そういうもろもろの要素が加味して、再制作したときに多少違っても、それをちゃんと評価する土壌があれば、それはいいんですよ。ところがそうじゃなくて、ただ概念的に再制作、オリジナル、一体どっちがどっちなのという、単なる記号的な意味で評価の差をつけるという受け取り方があるとすれば、これはもう全然作家はやる気がないわけだ。だからそうではなくて、そのときどきにきちっと押さえる人間がいて、再評価できるならば、それが新しいかどうかは別にしても、結局70年代と今つくった90年代、もちろんモノの質は違いますよ、どんな工業生産品でも。必要なのはモノに対するそのときの現実感、リアリティですよ。リアリティをどういうふうに解釈するかという問題で、それを評価してほしいわけね。とらえ方を、受け手も学ぶ必要があるんじゃないかしらね。

榎倉 ─ 例えば僕の、今度鎌倉画廊の展覧会 1994年9月12日-11月1日 鎌倉画廊「モノ派」展 で刃物 榎倉康二<余丁のためのコレクション>鎌倉画廊「モノ派」展1994年に出品 を出しているでしょう。あれは、大量生産すれば、ばんばんできるという、可能性はあるわけ。僕は逆に言うとあれは絶対あれで終わりたいわけよ。それはなぜかというと、あれは今回の展示のために刃物に部分はみがきなおしているけれども、ケ-スの部分は昔、家にいたときに、床下から全部材料を引っ張り出してつくったわけ。ガラスは別だし、鉄は別だけど、それからあのときに一緒に皮膚の写真を僕は展覧会に並べたわけ。そのときの周りのフレームというのは、自分の家の床下から、くず材を出して、それで意識的に使用した。だから新しい素材ではできないわけ。

李 ─ あったの。

榎倉 ─ うん、いっぱいあったから、意識的にやっているわけよね。そうすると、やっぱり再制作というのは、ちょっと僕はできないね。だから、作家の中に、これはできる、空間がありさえすれば、自由にいくらでもやれるんじゃないかというのもあるし、それからこれは絶対譲れんと、これは再制作はなしという、これはあってしかるべきだと思うし、それが自然だと思うんですよね。

菅 ─ 僕なんかだって、昔使った材料がもう全然工業生産……、再制作する前にないですよ。そんなもの、同じものをやってくれと言ったって無理な話で、いや、できないわとごまかしながら、きているわけだけど、やっぱり今言ったようにできるもの、できないものってあるよな。

李 ─ もう1つは、寸法とか時代性とか、一応は同じような、あるいは似たようにするけど、全く同じにしてくれといわれたら、これはもうお断りするしかない。それは、やりたいと思わない、おれとしては。かかわる中で何か、僕もだんだん違った年になってきたり、それこそ工業用材でも違ったものになってきたりすると、かかわり方にどこかひずみが出てきたり、それがおもしろいなり、何か刺激を与えるからやるのであって、同じものをそのとうりにやりなさいと言うと、それはできませんね、やりたくもないし。

菅 ─ 75年ぐらいまでの感じというのは、再制作できる要素を持っていますよね、どっちかいうたら。そうしないと、目指すものが全然あらわれないというかな、そういう考え方がある程度成立するような作品ばっかりだったわけですね、僕なんかの場合。だから、現物はもう全くないわけだし、同じものを使ってくれと言ったってそんなのは不可能ですから、新しいものを使うしかない。それで、ときには新しいものを使うと、これは昔と違うじゃないですかという人がいるわけだよ。そうすると、それはまずいよ、それは、だって75年までは全くそういうふうに再制作するなんて考えてつくっているわけじゃないんですからね、こっちは。だからそういうふうなこと、カッコつきの同じものという意味で言うと、違うものですよ、これは。

李 ─ モノ派は同じものということを否定しているんだ、ある意味では。

菅 ─ 本来的にね。

李 ─ 絶えず無限にそれぞれですよ。

菅 ─ さっき言ったように、多様性の問題だから、いくらでも同じようなものはつくるけど、全部違うんだと。かりに馬が部屋にいるという意味で言えば同じなわけだ。ところが全部馬は違うわけだから、それを認めてくれなければ、それは無理ですよ。変な話になったけど。

李 ─ まだ何か話があったかなあ。

菅 ─ 今度の鎌倉画廊の再制作……。

李 ─ 僕ですか。

菅 ─ 李さんは違うでしょう。

中村 ─ 榎倉さんは違いました。

榎倉 ─ 僕はオリジナルだよ。

菅 ─ オリジナル、みんな持っているんだ。

李 ─ おれなんか、ほとんどないんだよ

中村 ─ 皆さんないでしょう。

菅 ─ おれは、75年まではほとんど何もないね。

李 ─ 今出したあれは 李禹煥鎌倉画廊「モノ派」展1994年に出品(1968年作品再制作) 、去年まであったんですよ。あったけど、ボロボロで。さもそうさせたみたいになっちゃっていて、だからこれはもういさぎよく捨てようと。 それから、もう1つ僕はすごいいやな思いがあったから、やっぱりそれは落選作で、いやだなあという思いをしたのね。

菅 ─ でもあれはいいですよ。ああいうものというのは貴重だね。

榎倉 ─ でも、何か話を聞くと、あれははさみで昔切ったのが今度切れなかったって。だからそういうずれね。それのほうがおもしろいよね。

菅 ─ それを認めなきゃだめだ。今は機械で切ったっていいんだから。

李 ─ 今は製造の仕方が変わっていてね。はさみでいかないわけですよ。昔は簡単にポキッポキッと。

菅 ─ いや、実際そうですよね。

李 ─ 当然僕は思うから、今度ははさみを買ってきたわけ。そうしたら全然きかない。やっぱり材料に対する認識は昔のしか僕はもってなかったわけ。

菅 ─ 手が変になっているんじゃないの。筆しか持ってないから、最近は。

李 ─ 中村さんが随分苦労しちゃったけれどもね、ほんとに。

中村 ─ 電動ノコで切りました。

榎倉 ─ あれは、ステン?

李 ─ ステン。

榎倉 ─ それは切れないわ。

李 ─ ところが昔のステンは切れるんですよ。質が全然違う。電話をかけて、ステン屋に聞いたら、昔のつくり方はしていませんよ、ハハと笑っているわけよ。人間の考えというのは、いかに固定的かって。

榎倉 ─ だからそういうのがわりあい、僕ら作家にとっては、そういう即物的な問題というのは、結構大事なんだよね。一般の人はどうということはないと思うかもしれないんだけれども。

菅 ─ だってできるか、できないかの問題だものね。

李 ─ それで、そうこうやっているうちに、すこしづつ別のものをつくりたくなっちゃったりするんだ。

菅 ─ そうだ、それは、ほんとなるね、確かに。

李 ─ そう。いじっているうちに、別なものを考えちゃうんです。

榎倉 ─ またそれはほかでやればいいんだけど。

菅 ─ 70年代の作品って大概そうだね。やりながら、違うものを考えたものね。

李 ─ そうなんだ。

菅 ─ それで、やっぱり、あ、そうか、次はこれやろうとか、これをやるとか、すごく浮かんでくるんだね。だからそういう意味でのいろいろな多様性を持っていたんじゃないかな。

李 ─ 大きい展覧会がこれを契機にできればと思っているし。

中村 ─ そうですね。結構外国なんかでも、舞台はありましたけれども。

李 ─ モノ派っていう言葉は、みんな知っていますよ。今回ニューヨークへ行っても、中身はわからないけれども、モノ派というのはほとんど知っていたな、言葉は。ただ、勝手にひとり歩きしちゃって、それで、具体的にはモノ派というのは、分からないわけ。どうも何だか具体とは違う何かモノを使ったものがあるらしいというような。

菅 ─ まあ、その程度だと思う。

榎倉 ─ だからやっぱり、大きくパワーを見せてやっていくことは大事だよね。

李 ─ それで、この間僕は菅さんにも電話をかけたし、榎倉さんとも、電話をした。岐阜 岐阜県美術館 とか、埼玉 埼玉県立近代美術館 とか、北九州 北九州市立美術館 でつくった文面が行ったと思うんですけれども、それを今度またつくり直したらしいんだけれども、3、4日前に。

菅 ─ 相談に行ったでしょう。

李 ─ うん。それで僕は話をしているうちに頭にきて、それならもう僕は参加しないと言って出てきちゃった。

榎倉 ─ 後で新しいのを、僕はきょうファックスをもらったから。

李 ─ いやいや、それを僕は見たんですよ。昔、彼(菅)と2人で対談をやったときも 対談1978「モノ派をめぐって」(李・菅)季刊・現代彫刻第15号P.38-63 、モノ派という言葉は困るとか、いやだとかさんざん言ったんです。言ったけれども、既にそのときももうかなり時間がたっていたし、今は20数年もたっちゃったわけです。そうするとその言葉が一人歩きして、実際僕たちが背負ってきたけれど厳然と存在するんです。中身はだれとだれか、これはいろいろあるけれども、厳然と存在しているやつを、その言葉を取って事実だけを見直しながらやろうって、僕はこれには反対だと。タイトルが70年代の一断面という。ちょっと待て、それが必ずしも70年代でもないし、60年代後半からずうっとある。それでモノ派という言葉を強引に取ろうということには、僕はほんと飲めないと、すったもんだやっているうちに、その席を立った理由は、歴史に対する責任意識がまったく欠けていたからなんだ。これから先も何と書こうが、それは作品が証明してくれるということがあるかもしれないけれども、否応なく背負ってきて社会的に歴史的に残った、モノ派という言葉を抜いてやるのは、僕は反対なんです。誰かが責任を取らないとねそれで僕は参加しない。彼らにも言ったけれども、例えばアルテ・ポーヴェラの中でも、おれはアルテ・ポーヴェラじゃないというのが何人もいるんですよ。おれは違うと言いながら参加している。アルテ・ポーヴェラというのをとって、70年代のイタリアって、こんなものはありませんよ。 シュポール/シュルファスという言葉が嫌いな人がいるわけ。この間日本に来たときも、トニー・グランという人は参加しなかったんです、僕はあの言葉は嫌いだと言って。でも彼はずうっとそうかというと、ある別な展覧会にはまた出しているわけです。長年ひとり歩きしてきた言葉が歴然としてあるのに、裏が何なのか、陰謀なのか、だ。

榎倉 ─ 僕なんかは、李さんの言うことがよくわかるんだけど、だけど僕はモノ派という形の上で考えたときに、やっぱりさっき言った峯村さんのあの規定、あれがどこかふっとあるわけよ。

李 ─ いや、僕は絶対反対ですよ。

榎倉 ─ それは、やっぱりもっと構造的に、何かの形でアーティストでもいいんだけれども、全体でもいいけれども、やっぱり何かもう少しそれを形の上で変えていくようなものになれば、僕も気持ちよく参加できると思うんだけど。

李 ─ それは当然変えていかなければならない。

榎倉 ─ 例えば極端な例、新生モノ派じゃないけれども、新しく生まれ変わったとか、例えばだよ、これは冗談みたいなものだけど。そういう構造になれば、またかかわれるということがあるんだよ。だけど、あの峯村さんのああいう形があった以上、そのヒエラルキーをつけてしまったわけだから、そこのところで、改めて入るという、それはないでしょうって、ことはあるわけ。

菅 ─ わかるよ。

李 ─ でもその逆もわかってくれなければだめだ。あの規定では、僕やなんかはめちゃめちゃになっちゃっている。

菅 ─ 当時、ある意味であの時期というのは、やっぱりモノ派かどうかわからない、とにかくああいう性格の作品がたくさん出て、ほとんどのものがお互いに同じ空気を吸ってやってきたわけですよ。だからそれがたまたまモノ派ということでくくられても、逆の意味ではそれはほんとうに正当だと僕は思いますよ。

李 ─ だからその意味づけはね、どんどんやっていけばいいんだよ。

菅 ─ そのほうがあの時代を評価する上では、それを通過したほうがはるかにわかりいいという感じが僕はするわけだ。

李 ─ 僕もそう思う。

菅 ─ それは榎倉さんが全然違う方向から入ってきても、傾向としてはある。素材に関してもそうですよ。十分に語れるフィールドを持っているわけですね。

李 ─ 十分に語れる。それ以外で言えばむしろ語りにくいと思う。

菅 ─ うん、それをもし取ったら、じゃ、70年代、あの時代、あれをやったのは一体何だったのということになって、逆の意味で難しいですよ。

榎倉 ─ それは1つの点で言えるのは、僕はやっぱり中原さんのあの、人間と物質という展覧会 「第10回日本国際美術展<人間と物質>」展 1970年5月10日-5月30日 東京都美術館/1970年6月6日-6月28日 京都市美術館/1970年7月15日-7月26日 愛知県美術館 があったから、あれを基盤にしたいわけね。それで、峯村さんは、具体的にかかわっていたわけよね。評論家という立場ではないけれども。事業部にいたわけね。それで彼氏はどっちかというと、そのころはコンセプチュアルア-トの方向性が強かった。

菅 ─ 最初出るころはね。

榎倉 ─ 随分書いててね。だからモノということに対しては、非常に軽蔑していたわけよ、彼は。

菅 ─ 敏感だったのよ。

榎倉 ─ そう言っても僕はいいと思うね。それが、その流れの中で、どんどん形を変えていくわけよ。そういうことも僕はある意味で許せないところがあるし。だから僕の原点は人間と物質でもいいわけよ。

菅 ─ だからそういうタイトルをつければいいわけだ。

李 ─ モノ派という言葉が。

菅 ─ モノ派という言葉はどこかにあったほうがいいと僕は思う。だから、副題でも何でもいいけどつけないといけないと思う。

榎倉 ─ だから僕もそう言っているの、今度の展覧会でも、モノ派と何とかでもいいじゃない、それが1つの言葉で……。

李 ─ あるいはモノ派的なるものでもいいし。

榎倉 ─ それと、僕がこだわるのは、物質という言葉があるから、人間と物質じゃないけれども、やっぱりオブジェクト(OBJECT)というのとマタ-(MATTER)、これは解釈の領域はいろいろあるけれども、違うんだよ、その辺が、もうちょっと明確化すれば、僕はもっとみんな大手を振っていけると思うのよね。その辺が閉ざしちゃっているところがあるから、僕はいかんと言っているわけよ。

菅 ─ やはりマターだよな、我々が追求しているのは。

李 ─ しかもやっている僕らが閉ざしたことはひとつもないんですよ。みんな外野がね、何か変なふうに閉ざしたのであって、それはおかしいのであって。

榎倉 ─ だからそれだけのことなんだ、それがよくない。 だから来年の展覧会 「1970 - 物質と知覚もの派と根源を問う作家たち」展 1995年2月17日-3月26日 岐阜県美術館/1995年4月15日-5月28日 広島市現代美術館/1995年8月19日-9月24日 北九州市立美術館/1995年10月7日-12月17日 埼玉県立近代美術館 の件はそのことを少し考えてやるべきだと思うし、多分そういうタイトルも考えていると思う。さっき言ったタイトルは仮称でしょう、あれは。

李 ─ 仮称だけれども、それはもう決まっちゃっている。

榎倉 ─ いや、変えると思う、多分。新しいのは見てないよ。

李 ─ いや、見てる、見てる。

榎倉 ─ 見た? モノ派は入れていますよ。

李 ─ そう?

榎倉 ─ シュポール/シュルファス云々という中に。

菅 ─ それはリストの中に、タイトルじゃなくて?タイトルの統一をつけなければだめよ。

李 ─ 副タイトルでもいいんですよ。

榎倉 ─ その辺のところで、モノ派と云々という感じでもいいわけでしょう。

菅 ─ そう。そうだけど。

李 ─ 日本も大事だけれども、やっぱり外で、モノ派展をやりたいところが、具体的に2カ所ぐらいあるわけよ。

菅 ─ 関係ないものね。

李 ─ それで、ほんとうに70年代の場合は、それでもOKです。それならさまざまなものをいろいろ入れた、日本の全般的な70年代をやるというのなら僕は文句ないというの。それが僕からすれば、間違いなくモノ派なのに、何でそれが70年代というタイトルなの。ちょうど奇しくも、去年だか一昨年、3人で参加したじゃないの、70年代展 「70年代日本の前衛 - 抗争から内なる葛藤へ」展1993年3月17日-3月31日世田谷美術館 というの、何にもなりませんよ、そんなもの、何も見えてきやしない。僕はそれは反対だ、絶対に。何も見えるものではない。ボローニャで70年展 「70年代日本の前衛」展、ボローニャ市立近代美術館1992年12月12日-1993年1月31日(イタリア) 高松次郎<題名>1971年 があったわけでしよ。

菅 ─ 70年代と言ったら漠然としているものな。

李 ─ それはだめだと思う。

菅 ─ むしろものすごくたくさんのものが出たんだから。

李 ─ それで、さまざまな解釈をすればいいんですよ。

菅 ─ だから、ともかくモノ派という言葉を入れなければだめよね。それを利用して展覧会をやっている人もいるわけだから。

李 ─ それで、モノ派の話になると、こういう場所で言いたくないようなこともいっぱいある。亡くなった郭仁植さんというのがいるの、僕と同じ韓国籍で。彼がモノ派の元祖とか、冗談じゃないというんですよ。僕がガラスを割ったからって、あの人のガラスの作品を見たからって。

菅 ─ そう言われていたね。

李 ─ そんなことを言ってしまえば、それ以前のデュシャンの割れたガラスはどうするのよ。

菅 ─ だから、そういう意味で、周辺ですよ、カクさんはね。同じような素材を使いながら違うコンセプトをきちっとモノ派の作品が踏んでいるということを押さえないとだめですね。

榎倉 ─ 僕が言っているのは、もちろんモノ派という言葉がタイトルにあってもいいんだけど、モノ派とプラス、やっぱり必要だと僕は言っているわけ。それだったら僕も立っていけるわけよ。

菅 ─ わかりますよ、それは。ほかのだってあるんだから。彼自身が困るよな。人を見てやらないと。無理じいしなきゃいいんですよ。 でも、高松さんの後期の小さい、あるいはちょっとした木のやつとか、やはりモノ派的ですよね、完全に。

李 ─ モノ派、彼は。要するにペンキ缶 前出「Japanese Art After 1945 Scream Against the Sky」展 。あんなの彼のもとの発想にはないでしょう。

菅 ─ 悪いけど、一番いい作品の時期よね、あの時期が。ほかのは、影もいいけど、やはりモノ派に関連した作品のほうが、最高にいいですよ、今見ても。

李 ─ 今回、グッゲンハイム 高松次郎<杉の単体>1970年 へ行ってみたら、彼の『影』 が出ているんですよ。

榎倉 ─ 昔のやつが出ているの?

菅 ─ 『影』的な作品はあったよね。

李 ─ 有名な、野球選手だとかいろいろなものを全部シルエットにして、みんな影にしちゃう作家もいたり、いろいろいるんですよ。つまり、あのとき、ポップアートみたいに、要するに実体的なものを批判する虚像論というか。

菅 ─ あったよね、やっぱり虚像論が主流だものね、ポップアートでは。

李 ─ だから、高松さんのあの『影』の作品は、あそこで見ると強くなかった。 むしろあそこにペンキ缶でも持っていって差したほうが、よっぽどよかったかもしれない。

菅 ─ 高松さんのは、70年代の中盤の作品が一番いいです。

李 ─ あるいは木を 前出「1970 - 物質と知覚もの派と根源を問う作家たち」展タイトルについて

菅 ─ 木をやった、それは小さいのでも、一番最後の変な構築的な建築の崩れたようなのは、あれはだめだけど。それ以前はすごくいいね。あの分、短かったけれどね。3年か4年。非常にいいですよ。

中村 ─ ありがとうございました。この辺で終わりにさせて頂きます。

李 ─ それで足らなかったらまたやりましょうよ。

中村 ─ 文字起こしして、皆さんにチェックして頂いて、省くところは省いたいただいて。

菅 ─ そうですね。

榎倉 ─ 作家の内面的な話はおもしろかったね。

菅 ─ 全部起こしていいですよ、省くから。

中村 ─ そのままお送りしますから、お目通しして頂いて、ご検討頂きたいと思っております。

菅 ─ これは大分削らないかんけれど。

榎倉 ─ さっきの見せようか。前出「1970 - 物質と知覚もの派と根源を問う作家たち」展タイトルについて

菅 ─ 僕が見たものじゃないかな。

榎倉 ─ でも、モノって入っているよ。菅さんは、前のは来ているんですか。

菅 ─ うん、前のはあったけれども、全然知らない、新しいのは。

李 ─ これ、見てますよ。

榎倉 ─ でも一応入れていますよ。これは前は入っていなかったよ、この前は。

李 ─ そうそう。

菅 ─ どれ?

李 ─ しかもこれは、70年の……これはまずいですよ。

榎倉 ─ これはまずい。

菅 ─ だから、ここに入っているのはいいけれども、ここを変えてほしいというの、僕はね。

李 ─ そう。副タイトルでもいいんだよ。

菅 ─ そこだな、問題は。

榎倉 ─ そう考えていると言っていましたけどね。まあいいや、これから。

李 ─ 僕が依怙地になっているようにあの人たちに映るかもしれませんけれども、もう20数年というのは、やっぱり大変な時間なので、誰かが責任を取らなくてはならない歴史でしょう。

・了・

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